上海は日本租界を守る海軍の陸戦隊がいたので、事変初期はその奮闘と、木更津航空隊の上海飛行場の渡洋爆撃で押さえ、呉淞(ウースン)や杭州湾への陸軍部隊の上陸での上海攻略となる。
大規模だった杭州湾上陸は昭和12年11月5日、上海攻略は11月11日であった。次の目標の南京(ナンキン)へ向けて揚子江を遡る作戦が展開される。南京地図の左上にちらっと見える大河が揚子江で、ここから運河をぐるり引き回しての城郭都市「南京」は、日本の都市構造と大きく異なるのがわかる。
しかしこの南京もその年の12月に占領、以後中国は人をさらに山奥の「重慶(じゅうけい)」に移して徹底抗戦の構えを取ったので、日本軍は重慶への地上進撃をあきらめ、もっぱら空襲によって重慶市街を破壊しようとした。中国の人が未だに語り継ぐ昭和14年の5月3日、5月4日の空襲などがそれである。木更津航空隊もそれに参加している。このときの焼夷弾爆撃攻撃が都市爆撃には効果があるとわかり、後の米機の京浜方面への空襲はその報復ともいえるものであった。
「日支事変」直前の海軍艦艇の動き
戦艦「八雲」は日本では珍しいドイツ製造の船で日清・日露両戦役に活躍したが、古い艦であったため昭和初期になるとこのように練習艦として使われた。トン数は1015トンという。どちらからと言うと巡洋艦クラスである。同型艦の「出雲」と共に日支事変では上海近海の警戒についたが、旗艦は「出雲」に移っている。「満州航路」の特色は青島、旅順、大連などに詳しいことで、特に青島での海賊の追跡は貴重なものである。
上海の日本人租界などを守るために「第三航空戦隊」が結成されていた。
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日支事変の概略
昭和12年7月7日、開戦。赤丸印がその発端となった「盧溝橋」。日本軍はすぐに近くの大都市「北京」「天津」などを抑えた。
昭和12年8月14日・15日、木更津航空隊など渡澤爆撃開始(杭州、広徳)。
昭和12年11月5日、中支派遣軍の一部「杭州湾」上陸。間もなく「上海」占領。
昭和16年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により第二次世界対戦開始。
昭和20年5月15日、日本軍の降伏により第二次世界対戦終了。
昭和12年7月11日、「中攻」などをもって第1連合航空隊結成。司令部は木更津、北支那事変派遣軍の一部「太活」上陸。
昭和12年12月13日、「南京」占領。以後中国は首都を「重慶」に移して抗戰。日本軍は地上攻略は無理と判断し、戦意喪失を狙って「重慶」を焼夷弾爆撃の対象とした。著名なのは昭和14年の5月3日・4日空襲である。以後、地上戦は泥沼化。