台湾少年工
昭和18,19(1943,44)年に、およそ8400人の少年が座間の高座海軍工廠にやってきました。そして、高座海軍工廠など各地の工場で働きました。
台湾少年工の故郷
台湾は明治27~28年の日清戦争の後、中国から割譲されて日本の植民地となり、急速に日本化が進められた。下の地図は明治30年10月発行の「大日本明細地図」(大阪・田中太左衛門版)で日本の領地となった直後のものである。中央部を台湾山脈が南北に走り、東半分は大体山岳地帯で文化の浸透は遅れていた。地図の左上部に付したのは大正期までの二〇の庁名で、これを総括する形で台湾総督府が置かれていた(大正13・3「全国市町村便覧」藤谷崇文館版)。
昭和10年代になると台北州新竹州、台中州、台南州、高雄州といった五州と、花蓮江庁・台東庁、澎湖庁の三庁にまとめられているのがわかる。これらのうちの五州が、8千余人といわれる台湾少年工たちの故郷で、交通が不便で、日本語教育も著しく遅れていた三庁からは、空C廠(高座工廠の前身)工員に応じたものはいなかった。
当時の住民は山地に住んだ高砂(たかさご)族が約十万人・中国人が三百万人といわれている。
これらの人々に対して急速な日本化を意図した日本政府は、小学校教育を普及させ日本語の修得を強制し、改氏名を促進させた。しかし、この改氏名も無料というわけではなく、多少の手数料を徴したようである。ところが空C廠の工員に応募すると、この手続きが無料とされたようで、この点は応募者家族には喜ばれたようである。改氏名をして完全に日本人になりきった家庭には、食料配給でも白砂糖、上肉が配られ、そうでない家庭には黒砂糖、バラ肉が配給されたというから、統治政策もかなり露骨に行われていたことがわかる。
台湾(日本統治時代)
・面積:九州とほぼ同じ(約36,000㎢)
・人口:310万(漢民族300万、現地人10万)
・台湾は、日清戦争後(1895〈明治28〉年) 下関条約で清朝から日本に割譲された。
・その後、1945(昭和20)年まで日本が統治し、皇民(天皇の民)化が進められた。
・日本語教育:学校では日本語だけを使い、台湾語を使うと罰せられた。
改氏名:台湾氏名⇒日本氏名(例:林錦榮⇒小林武夫)
・日本の神道を強制された。
*清=中国の当時の国(名)
*当時の日本=元首は天皇 国民は皇民
台湾地図 明治30年版
高座海軍工廠に着くまで
小学校高等科の卒業(13歳)が近付くと、日本人の先生が、優秀な少年などに話しかけた。
「日本に行けば給料がもらえ、仕事をしながら勉強ができ、5年たてば旧制中学卒業と同等の資格が取れる。さらに、希望すれば技師にもなれる。」と。(旧制中学=5年制:卒業17歳)・学力検査、身体検査、口頭試問(面接試験)で優秀な少年が選ばれ、台湾で基礎訓練(数学英語等の教科、海軍式訓練)を受け、船で日本へ向かった。アメリカの潜水艦の攻撃を避けるため中国大陸の沿岸に沿って進み、日本の港へ着いた。
台湾少年工が8千人……、これが一度に来たわけではありません。何隻もの船に分乗して、当時、宿舎のあった大和村(現在の大和市)の上草柳に来て、そこから幾人かは名古屋、横須賀、船橋などの工場へ回された人もいます。高座海軍工廠で最盛期には約8千人の少年工が働いていたとされ、文字通り生産の主力を担っていました。写真はあどけない幼顔の少年工たちです。
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[第一期]
昭和18年3月の入廠工員をいう。この期については、ふつう日本人工員のみ200名が入廠とされている(保坂治男著「望郷のハンマー」など)が、台湾工もまったくいなかったわけではなく、少数ながら入っているようで、1期生として新竹地区の3名、宜蘭地区の1名、計4名が入っている(上述の聯誼会名簿による)。但しこれらの人々は、この時、直接に台湾から来たのではなく、以前から来日していた人々が数えられたのかもしれない。本格的な入廠は次の第二期からとなる。
[第二期]
800~1000名が入廠したとされる。昭和18年5月8日、吉田技術少尉引率で「浅間丸」で横浜入港、空C廠入所。後に聯誼会虎尾地区会長をつとめる林徳盛、同じく台北地区総幹事をつとめる許錫福(船橋の日本建鉄、横須賀空技廠勤務)、宜蘭地区の同役簡振松(横須賀空技廠)、楊梅地区の同役呉永生(日本建鉄)、台南地区同役呉清洪(横須賀空技廠)各氏などが入廠している。
[第三期]
1000~1300人といわれる。輸送船竜田丸(龍田丸?では)などで、伊藤技術少尉引率で入廠。竜田丸は第七期も運んでいる。この期に名を連ねているのは、聯誼会斗六(とうりく)区会長の黄茂己(本廠胴翼工場)、新高地区会長の陳国栄(日本建鉄)、桃園地区会長の簡土性(横須賀空技廠)、同じく総幹事の李詩来(同上)、高雄地区総幹事の李輝松(勤務地不詳)の各氏などである。