台湾での少年工募集から来日まで
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
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[第四期]
  1000~1500名。中等学校卒業者と小学校高等科卒業者。台湾の岡山(おかしゃん)で予備教育の後、赤痢発生で手間どり、9月「白楊丸」で瀬戸内海から神戸入港。空C廠入所は9月13日。この期の入廠者には上述した陳碧奎(三菱。後に北港地区会長)、楊梅地区会長陳清基(本廠養成工係)・台中地区会長何喬(中島飛行機)、嚢地区会長呉饗(本廠肇、彰化地区総幹事箋(中島小泉工場)などの略氏がある。
[第五期]
 この期は農、工、商といった実業学校が卒業短縮されて12月の卒業となり、12月末に高雄から「白楊丸」「朝日丸」に乗船、洋上で越年し昭和19年1月佐世保着、入廠。この期は上記の事叙情で、台湾少年工の最盛期(二期~七期)の中では来日者の数が最も少ない。頼復象(桃園農学校卒。本廠指導員)、陳清基(同上。本撒養成工指導員)、張淡地(彰化商業学校卒。勤務地不詳)、呉輝星(台南工業学校卒。同上)などの各氏が入廠している。

[第六期]
 五年制中学の卒業短縮はなかったので、その正規卒業者と各地小学校高等科卒業者たち。グラビアに資料を載せた周吟郎(私立台北中学卒。本廠胴翼工場)の他、陳豊吉(同上。寮長)、対昌発(同上。寮長)、坤海(新竹中学卒。本廠機械工場)、宋定国(成淵中学卒。勤務地不詳)、富永昌億(原名不詳。公立台北中学卒。寮長)、森本雪夫(原名不詳。同上、同上。この人は来日中に腹部疾患で病没)の各氏などが入廠している。この期の出航は幾つかに別れ、周吟郎氏の証言によれば、同氏ら第一陣は「鴨緑丸」(六千トン)で基隆出港、台湾海峡を横切り大陸沿海に出たが、

そこから直接五島列島に向かったという。下関に1泊、神戸上陸、臨時列車で神奈川へ。鶴間下車は昭和19年3月31日で、桜は開花寸前の蕾だったという。なお、保坂治男著「望郷のハンマー」によれば、この期は約一千名で、「扶桑丸」「筥館丸」で3月22日に大阪着、とあるから、三船に分かれて来日したことになる。
[第七期]
 輸送船竜田丸(龍田丸では?)などで昭和19年4月~5月に約二千名来日、入廠。空C廠は4月1日に「高座海軍工廠」として正式に発足していたので、工員不足は頂点に達していた。台湾少年工に頼る度合いは極めて多くなっていたのである。
 入廠者の中には、後に聯誼会苗栗県区会長となる邱仕才(第一空技廠)、同総幹事頼廷譚(同)、新海地区総幹事李朝樹(三菱名古屋、川西鳴尾工場)といった各氏がいた。
 保坂治男「望郷のハンマー」には〈これからは航海の安全が望めないとして、これを最後に、台湾少年の






輸送は打ち切られ〉たとあるが、聯誼会編の「通訊手冊」によれば、第八期から第十二期までも続いているので、小規模ではあるが、この後も台湾から少年工が送られ続けたようである。しかしその数が極めて少ないのは事実で、同上名簿によれば、八期は26名、その後は各期4~2名となっている。










後列右端はお手伝いさん。周氏は当時の台湾にあっては恵まれた家柄で、私立台北中学卒業者として日本の空C廠に応募し、第6期の来日者。寄宿舎最寄駅小田急線鶴間駅に降り立ったのは昭和19年3月31日で、桜はまだ蕾だったという。旧中卒であるから一行の指導者格、工廠では胴翼工場の班長として仕事をされた。
 台湾少年工の総数は宿舎のあった大和市の調べでは8419人、台湾本国の「高座会」(少年工たちの成人になってからの会)の調べでは、8千4百余人になっている。高座会の名簿「通訊手冊」には、そのうちの住所の判別しているものとして3125人の住所氏名が期してある。この約8千人の人数がすべて高座工廠で働いたというのではなく、高座工廠はいわば台湾少年工のまとめ役だったわけで、ここから各地の海軍工場(横須賀工廠、船橋の「日本建鉄」、名古屋の「三菱重工」など)に派遣された者も多い。しかし主力が高座工廠だったことは確かで、その労働力は高く評価されている。
周吟朗氏の訪日

 周氏の故郷は新竹州揚梅県揚梅。台北市のすぐ近隣である。左の写真は日本へ向けて出発の直前の家族写真。中列右端が吟朗氏、その左が父君、さらにその左が長兄で、後列左端がその妻。子供はすべて夫妻の子。






 高座寮の級友と吟朗
 上の写真は日本へ来る輸送船「鴨緑丸(6千トン)」で同室だった仲良し。五年生中学の卒業短縮はなかったので正規卒業の実力者たちである。高座寮では何れも寮長や班長。このうち森本は腹部疾患のため二位本で病没。下の写真は頼復象氏は桃園農学校卒。三年制の実業学校は卒業が三月から前年の十二月に短縮されたので、周氏より三か月早い第五期生として高雄から出航。洋上で越年して昭和19年1月に佐世保着となっている。船は違ったが同年配であり、高座寮で同室の親友であった。
 はるばると日本へ働きにやって来た13才という少年たちの顔写真(台湾の出版物「台湾少年工写真帖」から)。みんなあどけないこどもの顔をしていますね。
 別れてきたお母さんが恋しくてなりません。夜十時が消灯でしたから、それから寝床へ入っても寝つけません。あちこちで「阿母(あもう)……」(台湾語で「お母さん」)というすすり泣きの声がします。それを、同じ台湾から来た旧制中学校出のお兄さんたちが各自の枕もとを回って慰めてくれます。毎晩そんなことの連続でした。無理もありません。現在でいえば中学二年生の少年なのですから、お母さんが恋しいのは当た
り前です。
 皆さんも自分が日本からはるばる台湾まで一人で働きに行った、と想像してみてください。そうゆう少年が八千人もいたのです。戦争とは、こうゆう親子の引き裂き方もあったのです。今の平和な時代には想像もできないことですね!
概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
争-中国:  戦争-アメリカへ:  少年工の戦後:  記念事業:  その他: