戦 争 太平洋戦争 アメリカとの戦い
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
トップへ
太平洋戦争中の日本

 当初は破竹の勢いで敵地に進行しましたが、翌年(昭和17年)、ミッドウエー海戦で敗れると、飛行機の戦いで次第に劣勢になりました。特に高高度で飛行するアメリカの大量のB29爆撃機に対応するのが難しかったのです。これに対応する戦闘機を大量に生産しようとしたのが、高座海軍工廠だったのです。しかし、学徒までもが、戦場に、製造現場に動員されていたので、働き手が極度に不足していました。その働き手になったのが、日本の教育を受け、日本語もできる台湾の少年だったのです。
 日本の海軍では爆撃機のことを陸上攻撃機と呼んでいたので、「中攻」とか「陸攻」とかの略称となる。厚木飛行場は戦闘機の航空隊であったが、木更津飛行場(千葉県木更津市)は爆撃機の航空隊だったので、配属されていた機種の上の写真のような「中攻」と「一式陸攻」が主力であった。「中攻」の方が先で、「一式陸攻」はその後継機のような形で配備された。飛行場には工廠がつきもので、木更津飛行場には「第二海軍工廠」があったが、少し離れた八重原、周西両村にまたがって「八重原工場」(2村は合併させられて君津町となったので「君津工場」とも呼ばれる)が出来、これは 高座海軍工廠とほぼ同じ時期だったの
で、二つの工場には似た点が多い。木更津工場は昭和9年からなので厚木飛行場の先輩格。
戦時中の厚木航空隊の3機種
B29対策に生み出された「斜銃(しゃじゅう)」

 第二次大戦末期、日本本土を繰り返し空襲したB 29対策として、厚木航空隊司令小園大佐が発案した「斜銃」は、夜間戦闘機に30度上向きに固定銃を取り付け、B29の後下方を飛びつつ連続射撃するというものであった。写真は戦時中の厚木飛行場で、下方の「銀河」に斜銃2門が取り付けてあるのがわかる。上方の2機は「月光」で、これらにも斜銃が取り付けられた。厚木空に「月光」51機、「銀河」は8機配備。




 昭和20年7月30日のグラマン空襲で大和の泉の森公園で夜勤からの帰途についていた少年工6名が犠牲になりました。P51かグラマンかよくわからないという人もいますが、当日の空襲の記録に南方洋上の空母を発した艦載機、という言葉がありますので P51ではありません。
戦死など

・昭和19年12月18日 三菱名古屋工場で25名戦死
・昭和20年7月30日 高座海軍工廠で6名戦死(善徳寺に慰霊碑)
・昭和20年 14才の少年風呂清掃中に空襲熱湯で火傷死
・戦死者は全部で50余名
概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
争-中国:  戦争-アメリカへ:  少年工の戦後:  記念事業:  その他: