グラマン戦闘機には伝統的に「猫」のニックネームが付されるしきたりになっている。すなわち「ワイルドキャット」「ヘルキャット」(ヘルは地獄の意)「トムキャット」「タイガーキャット」(これは双発戦闘機)等である。つまり日本は猫にやられた、ということになろうか。それにしても戦争にまでもユーモアを持ち込む米国民性は日本人とは大きく違うところがあるようである。
艦載機であるから大戦末期には日本のどこへでも空母を近づけて、そこから発進してくるという手のつけられない存在となった。思うままに日本本土の軍事施設や小・中都市を空襲してきた。この展示に関連する痛ましいことには、昭和20年7月30日朝の泉の森(座間と大和の接する所)の少年工襲撃事件がある。
日本の「隼」「零戦」などと争った米陸軍戦闘機
第二次世界対戦中日本の「隼」(陸軍)、「零戦」(海軍)などの戦闘機と制空権を争った米陸軍戦闘機と3機を紹介しておく。写真の上から「サンダーボルト」「ムスタング」「P51」それに双胴の「ロッキードP38」である。P38は山本五十六連合艦隊司令搭乗機を撃墜したことでも知られるが、終戦直前には日本本土空襲に度々やってきて日本人におなじみなのはP51であろう。キーンと頭に響くような音を立てて飛び去る高速度の戦闘機で、機銃掃射による多くの犠牲者も出た。
硫黄島を占領した米軍が急いで作った飛行場から相模湾を目ざして飛来し、神奈川、東京などを襲ったので、この地域の人には広く知られている(硫黄島のパネル参照)。硫黄島基地が完成してP51が初めて本当空襲にやってきたのは昭和20年4月19日の昼少し前であった。来週したP51のみの96機という大編隊は、四つに分かれてそれぞれ目的地を攻撃したが、この時は厚木飛行場から戦闘機「雷電」の編隊29機がこれを迎え撃って空中戦となったが、雷電の編成隊長福田英夫大尉(当時中尉)機が逆に狙撃されるという悲劇があった。
厚木方面へもその一隊がきたので、厚木航空隊雷電の隊長だった福田秀雄大尉は雷電29機を率いて、これを迎え撃つため飛び上がりました。ちょうどこの辺りの上空で約50分間の空中戦が繰り広げられました。雷電側にとって不幸だったことはP51の初空襲でしたから相手の飛行機のことがよくわかりません。バタバタと雷電3機が撃墜され、その中に福田大尉機があったのです。福田機は、厚木飛行場滑走路の北側から東へ9km当たり、現在の横浜市旭区白根町に墜落、福田大尉は戦死しました。ちょうど近くにいた人々が、大尉の遺骸を近くにあったお寺(円正寺)へ運びましたので、福田大尉のお墓は円正寺にあります。