病没後発表された小園安名司令の抗戦の手記と、終戦直前、厚木航空隊が撒いた抗戦ビラ、米軍のビラ等。
手記は厚木飛行隊の副官があずかっていたもので、小園大佐の病没後に発表された。「必勝の兵器」とは小園の発案した「斜銃」のことである。終戦当日、マラリアの高熱を発した小園は、野比海軍病院に上官によって強制入院させられた。この前後に高松宮の厚木航空隊説得がある。
高松宮は昭和20年8月14日に厚木空に反乱をやめるよう説得されたのであった。小園司令はマラリアで入院中なので、副長と整備隊長が代理として東京霞ヶ関の海軍軍令部地下壕に出向いて高松宮の説得を受けた。宮は、日本の降伏は天皇の意思で、決して「君側の奸」の行為ではない、と切々と説かれたという。この結果厚木空の反乱行動は終結したのであった。マッカーサーを迎える日も刻々と近づいていて、8月15日は「日本の最も長い一日」となった。
天皇の弟の秩父宮は陸軍に、そのまた弟の高松宮は海軍に籍を置かれ、この二人の言動は、陸海軍それぞれにそのまま天皇の言動と受け取られていた。そういう立場から説得に当たった。
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厚木飛行場に到着したマッカーサー
昭和20年8月30日に米軍のマッカーサー総司令官が初めて日本本土(厚木飛行場)へ到着した時の報道写真。
厚木航空隊の一部の将兵たちは戦争終結に反対して、抗戦の動きを取ろうとしていました。その危険な厚木飛行場へマッカーサーが降り立ったのです。この時、もし一発でもマッカーサーに対して縦断が飛ぶようなことがあったら、米軍機はその報復として、関東の数都市をじゅうたん爆撃する予定だったと言われています。まさに虎の尾を踏むような危険に満ちた平和の到来だったのです。
進駐は無事に終了して、このあとマッカーサーは警護の兵に守られて横浜の宿舎まで車で移動します。日本の第53軍(相模湾警備の将兵)も50m ごとに一人の兵を道の端に立たせて厳重な警備をしていました。マッカーサーは無事に横浜の宿舎に入って、その日から米軍の日本占領政策が始まったのです。