高座工廠 土地の買収、工廠の状況と戦後
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
トップへ


厚木飛行場現在の管理(色分け)



















までは飛行場と高座海軍工廠とをつなぐ場所で、軍用地の中であったがこの部分のみ農地解放された。
 ひと口に米軍基地厚木飛行場といっても管理体制は複雑で、左の図では三つの色分けして示されている(爆同資料による)。緑部分は米軍に提供している所。茶色が米軍管理。黄色は海上自衛隊管理部分。地図左端上部が正門。正門のすぐ右側に自衛隊司令部があり、その中に資料室があり来場者には公開されている。
広場はマッカーサー公園。その二つの間の道を東に進むと最も重要な管制塔がある。下に新・旧二つの管制塔の写真を示しておいた。厚木航空隊時代から残る建物は現在では武道館(米軍はこれを協会として使用している)のみである。なお、地図上(学校東名高速道路の通っているところ)の白い地図の部分は、終戦
終戦直後の厚木工場見取り図

 日本の将校が要求に応じて米軍へ提出したもので当時の実態が現れている。
 厚木飛行場は昭和13年土地買収、昭和18年完成。神中線の北側(地図の右端)一帯が高座工廠だが
この地図には描かれていない。神中は現在の横浜線で、駅名も現在と異なる。さがみ野駅というのは当時はなく、少し大和駅より「大塚」駅があり、そこから飛行場と高座工廠へ引き込み線が引かれていた。主滑走路は初めは1800m、 後に米軍接収によって3000mに伸ばされた。地図上方の「相模野航空隊」と
いうのは実戦部隊ではなく設営隊、実戦部隊の「厚木航空隊」(302空)東の方の宿舎にいた。終戦から平成の時代まで当時の建物は二つ残されていた(相模野航空隊本部と武道館)が、前者は平成●解体、武道館のみが米軍の教会として現在も残されている。
家屋防音の対策が国によって実施されたが、十分なものではなかった。〈別のパネル「騒音対策」参照〉、岩国移転のあとは、こうした訓練は主として硫黄島でなされるということだが、天候その他の条件によっては、厚木基地で行われることもあるとの暫定条件はいまだに残されたままである。
厚木飛行場 米軍厚木基地海上自衛隊共同使用

 開設当初は1800m、現在は3000m、飛行場完成は昭和18年。今は美しい芝生だが、完成を待って神奈川県師範学校生徒が芝を植えた。学徒動員である。
 終戦時は厚空の叛乱があった。戦闘機乗りは気が荒い。日本政府はおとなしい一式陸攻の木更津飛行場からの進駐を望んだが、これはマッカーサーに拒否された。
米軍基地としての厚木飛行場

 平成30年に米軍艦載機が岩国基地に移るまでは、夜間の「NLP訓練」の騒音に悩まされ続けられた。空母への発着訓練を飛行場の滑走路で行ったのである。空母への着陸が失敗したと仮定して、エンジンをふかしてそのまま急上昇する訓練である。写真で見ると美しい光線の軌道を描くが、これが騒音が伴うので近隣地区の騒音被害は甚だしいものがあった。せめて夜間だけでもこれを止めるようにと、近隣自治体は交渉を重ねたのであった。昼間も含めての騒音被害対策は、地区別に騒音が計られて騒音の度合いに応じての




かって雷電が押されて通った道、今は相模野の桜の名所
 横浜線相模野駅の北側一体であり、戦時中の高座工廠のあった場所。特にこの位置は、工廠と飛行場をつなぐ場所で完成した「雷電」が行員たちの手押しで飛行場の方へ運ばれたところ。米軍接収をのがれて農

地として解放されたが、農民たちは広い道路をそのまま残し、両側に桜の苗木を植えたもの、立派に育ち現在では「畑かん桜」の名で知らで、座間市有数の桜の名所となっている。3月末から4月初めにかけての花盛りには屋台も出て近隣の人々で賑わう。
厚木工場の海上自衛隊
 厚木飛行場を海上自衛隊が米軍と共同使用できるようになったのは昭和46年からである。但し、海自は米軍のように戦闘機の戦闘訓練ではなく、主として哨戒活動、救難訓練などであるから、使用する機種も米軍とは大きく異なる。
概要:  少年工募集から来日:  工廠-生活と就業:  工廠-用地買収から戦後:    
争-中国:  戦争-アメリカへ:  少年工の戦後:  記念事業:  その他: