高座工廠での生活
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
少年工の夜
入浴も食事も多人数でごった返す様子がよくわかる。夕食後は自由時間で、概ね各部屋や友人の部屋を訪ねての歓談、トランプなどのゲームが多かったようである。真面目な者は自習室で学習していた。この後は就寝前の「点呼(てんこ)」があり10時の消灯となる。なお食堂の周吟朗氏の来日時に確認。
休日・楽しみ
・映画、行楽(江の島、鎌倉、東京等)
・近所の農家の人々との交流。
台湾の台北市の西に接する陽梅県に「周吟朗」という少年がいました。旧制の台北中学を卒業してから台湾少年工として高座工廠に来て、大和村上草柳の宿舎に住みながら工廠で戦闘機「雷電」を製造しました。周さんは胴体工場の班長さんとして年少者のめんどうをよくみた、と伝えられていますが、それだけに書類
なども無くさずによく保存されましたので、委員会ではそれをお借りして写真におさめました。このパネルに示したのがそれですが、小田急で新宿に出て見た映画のもぎり切符までも保存されたとはおどろきですね。工廠の食券もあります。お昼の時間には、これを1まいずつ食堂に出したのです。台湾を出発した時は昭
和19年3月16日で22時に台北駅に集合したようすなどもよくわかりますね。なお、「空C廠」というのは、「高座海軍廠」という正式の名がきまるまでの工廠の呼び名です。
はるばると日本へ働きにやって来た13才という少年たちの顔写真(台湾の出版物「台湾少年工写真帖」から)を集めてみました。みんなあどけないこどもの顔をしていますね。皆さんとまったく同じ年齢です。別れてきたお母さんが恋しくてなりません。夜十時が消灯でしたから、それから寝床へ入っても寝つけません。あちこちで「阿母(あもう)……」(台湾語で「お母さん」)というすすり泣きの声がします。それを、同じ台湾から来た旧制中学校出のお兄さんたちが各自の枕もとを回って慰めてくれます。
毎晩そんなことの連続でした。無理もありません。現在でいえば中学二年生の少年なのですから、お母さんが恋しいのは当たり前です。
皆さんも自分が日本からはるばる台湾まで一人で働きに行った、と想像してみてください。そうゆう少年が八千人もいたのです。戦争とは、こうゆう親子の引き裂き方もあったのです。今の平和な時代には想像もできないことですね!
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当時、大和村役場から工廠の人事係へ
目代さんは結婚前の旧姓は山中。大和村役場の人事係職員だったが、台湾少年工が多量に移入し始めたので工廠の人事係に異動し、以後、少年工たちとは最も密接に関わることになる。
工廠人事務の人たちが休日に箱根旅行し、乙女峠から御殿場に下りた時のもの。
少年工の林勝乾氏も同行している。
戦死など
・昭和19年12月18日 三菱名古屋工場で25名戦死
・昭和20年7月30日 高座海軍工廠で6名戦死(善徳寺に慰霊碑)
・昭和20年 14才の少年風呂清掃中に空襲熱湯で火傷死
・戦死者は全部で50余名