【蓮如上人(れんにょしょうにん)、名残(なごり)の名号(みょうごう)」】
蓮如上人(れんにょしょうにん)というたら、かたむきかけた本願寺(ほんがんじ)をたてなおした人として有名なお方じゃ。
この蓮如上人が、衣(ころも)の先に墨をふくませて書いた「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の六字が「名残(なごり)の名号(みょうごう)」として、今も浄土寺(じょうどじ)に残っとる。
蓮如上人はの、本願寺法主(ほうしゅ)の子として生まれ、幼名を布袋丸(ほていまる)というたそうな。
涙(なみだ)ながらにそう言うと、母はかきけすように消えてしもうだ。
布袋丸はそれから法名(ほうみょう)を蓮如(れんにょ)と名乗(なの)るようになっての、比叡山(ひえいざん)でつらい修行(しゅぎょう)にはげんだ。
苦しいときに思い出すのは、優しい母の顔ばかりじゃった。
母に会いたいと思う気持ちはつのるばかり。
そんなある日のこと。
疲(つか)れきってまどろみかけた布袋丸は夢をみた。
「布袋丸や、なげやりになってはいけませんよ。どうしても私に会いたくてたまらなくなったら
石仏群
風化した石仏が、時の流れをかもしだす。
そのころは寺も下り坂じゃった。
法衣(ほうい)も買えんので、紙で作った法衣を着とった。
袖(そで)だけ、絹(きぬ)の布(ぬの)をつぎたしてな。
布袋丸が六才のとき、母が布袋丸をそばに呼んで言うた。
「布袋丸や、もうあなたは六才です。私がいなくなってもやっていけますね。私は備後(びんご)の国から来ましたが、わけあってもう帰らなければなりません。世の中を救えるような立派(りっぱ)な僧になってください……」
干体仏
浄土寺多宝塔裏の石段を上がっていくと、右手に数えきれないほどの石仏。風化がすすんでコケむしているけれど、まだ優しい笑顔を残しているものも。思わず手を合わせたくなる。
1920年頃、浄土寺の土地の一角に、筒湯小学校が建てられ、そのあたりに一部は埋れていたものを堀りおこし移しかえたもので、最上段の中心に立つ比較的かたちの整った高さ97cmの阿弥陀座像を頂点にその数ははかりしれないが、約八百体ばかりあるものとみられ、あるものは削れ、あるものは欠け、
あるものは首を落し、これは7~8百年の星霜における落盤、風化がこのようにしてしまったのであろう。まだ新しいコンクリート台になじめず、初夏の陽ざしをもろにうけ一層無惨さを感じさせる。
、尾道(おのみち)にいらっしゃい」
そう言うと夢の中の母は消えてしもうた。
母に会いたい。
一目会いたい。
心はつのるばかり。
その次の年、永享(えいきょう)八年のことじゃ。
蓮如は旅じたくをととのえると、尾道へと向かった。
「尾道まで来たが、はて、どこを探(さが)せばいいんだろう」
足を棒(ぼう)にして探しまわったが母は見つからん。
くたびれはてて道ばたにすわりこんでしもうた。
尾道の町をぼんやりと見下ろしていた蓮如は、ふと幼いときにしてくれた母の話を思い出したんじゃ。
「布袋丸(ほていまる)のおじいさんとおばあさんは、なかなか子供にめぐまれなかったのです。それで毎日浄土寺の十一面観音(じゅういちめんかんのん)さまに、子供をさずけてくださいとお参りにいって、
やっとお母さんが生まれたのですよ」
というその言葉をな……。
「そうだ浄土寺へ行ってみよう」
蓮如は浄土寺へ行くと、観音さまの厨子(ずし)の前で、夜通(よどうし)し拝(おが)んだ。
「母に会わせてください。お願いです、母に会わせてください」
とな……。
夜明け前、観音さまの厨子が音もなく開いての、まぶしいばかりに輝く観音さまがおでましになった。
よく見てみると、それはなんと母上じゃった。
「お母さん」
ふくませると「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と書いたんじゃ。
その時、蓮如はこれから先どんなことがあってもくじけないで、立派な僧になることを母に誓(ちか)ったそうじゃ。
(「尾道のむかし話」西原通夫著より)
「ああ、立派になられたこと……」
十七年ぶりの再会(さいかい)に二人は手をとりあって泣いた。
そしていろんな話をしたんじゃ。
じゃが、楽しいときはあっという間にすぎてしまう。
まもなく母は厨子の中にもどられ、静かに扉(とびら)が閉(と)じられた。
「お、お母さん……」
あまりに突然(とつぜん)のことで、筆(ふで)をさがすひまもなかった。
それで蓮如は自分の衣(ころも)の先に墨(すみ)を