【吉和太鼓踊りの起源】
1336年、足利尊氏が西に落ちのびる途中、尾道の浄土寺へたちより戦勝祈願をし、一方で、船頭を募り、内海の水軍を手なづけて後々の備えをした。
その後、吉和の漁師を船頭にし九州へ攻め入り、見事平定し再び京都へ向かった。
その途中、尊氏は再び尾道に船を泊め、浄土寺観世音菩薩へ法楽の和歌三十三首を奉じました。尊氏はまた、九州へ攻め入るとき尊氏軍の船手の船頭をつとめ、功労のあった吉和浦の人々に、近海の漁業権を与え、尊氏の御座船の型を漁船に使うことを許すなどの特典を与えました。
これを喜んだ吉和の漁民たちは、勇壮な戦勝祝いの踊りを踊りました。これが今に残る吉和太鼓踊りの始まりとのことです。
1960年代頃までは、吉和の漁師は港に帰ってくるのは年二回程度で船の上で生活していました。これを家船(えぶね)と言いました。
踊りを奉納する際、石段を後ろ向きに登ってきます。
後ろ向きに石段を上がるのは下から敵が攻めてこないよう見張る意味があるといわれています。 (後ろ向きに登ってくる奉納おどりは、他では聞いたことがないですね。)
下ったところが浄土寺下です。
尾道駅方面のバス停は、道路を横断し右に行ったところにあります。
余談ですが、源義経が壇ノ浦戦いで“船頭を攻撃”した結果、鎌倉幕府がなかなか西日本を治められなかった原因になったのでしょうか?
その歴史の教訓から、足利尊氏は、船頭(海運業者)を敵に回さないために、尾道に留まり、味方につける方策をとったのでしょうか?