「胎内で新羅へ遠征した武神 応神 天皇」
神功皇后が新羅を攻めるとき、おなかのなかに宿っていた御子は帰国後に筑紫(福岡県)で誕生した。このとき大和(奈良県)には母を異にする2人の兄がいて、皇位を狙っていた。そこで塁后は、家臣の建内宿禰(たけうちのすくね)などの助けを借り、わが子が亡くなったように見ぜかけるなど知恵を働かせて闘った。こうして無事に母子は大和へ入り、のちに御子は天皇として即位する。第15代応神天皇である。
応神天皇は、71歳のときに即位し、130歳で崩御(「日本書紀」では110歳)。
新羅遠征中の神功皇后をおなかの中から援護した応神天皇は、武神・八幡神として信仰された。応神天皇を八幡神として祀るようになった年代は未詳だが、884年に編纂された『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』にはすでに記述がある。
(「日本の神さま 解剖図鑑」平藤久喜久子著より)
応神天皇は、のちに八幡神として篤い崇敬を受けることになった。
応神天皇には、自ら見そめた髪長比売(かみながひめ)を息子(のちの仁徳天皇)に円満に譲ったというエヒソードが残る。
父は第14代・仲哀天皇、
母は神功皇后、母・神功皇后の妊娠から出産までの日にちは長かった。
異母兄弟の麛坂皇子(かさごさかおうじ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)が皇位を訳るまいと共謀して神功皇后を襲撃しようと目論むが、建内宿禰らがこれを鎮めた。