下部に扇が刻まれています。
【伝説 蚊帳街の話】
伊予宇和島藩主、伊達秀宗公の付家老山家清兵衛は千石の知行取りで、忠節剛毅しかも慈悲深い人格者として、殿さまの信任もたいそう厚い人でした。清兵衛が
あまりにも忠節をつくす ので、ついに心の曲がった家臣たちに憎まれるようになりました。
同じ付家老で知行千九百石の桜田玄藩とその手下で槍の指南役脇三左衛門は、じゃま者の清兵衛を陥れようとたくらみました。ところがそれを見破った清兵衛に反対にこらしめられ、
なおさら怨みを深くしたのです。そして今度は、清兵衛を亡きものにしようとねらうようになりました。
その後、宇和島藩は幕府の命令により利根川の川ざらえの費用を受す持つことになりました。清兵衛をはじめ、脇三左衛門、大町武膳を含む一行は、
五万七千両の大金を幕府に納めるために宇和島をたちました。
三津ケ浜の船宿、難波屋の離れ座敷に泊まった夜のことです。脇三左衛門と大町武膳は、清兵衛の寝ている蚊帳の四隅のつりひもを切り落として、清兵衛を刺し殺してしまいました。清兵衛の死がいは三津ケ浜沖に錨をつけて沈め、二人は金子をうばって何食わぬ顔で宇和島に帰りました。
悪人どもは殿さまを毒殺して、藩政を左右しようとたくらんでいました。
寝ず語り明かすとなお御利益があったそうです。
この夜は、旅に出ることの多かった尾道商人や信仰篤い人々が夜通し参拝し、神主も夜明けまでおはらいをしていました。
薬師堂浜には御旅所がもうけられ、屋台がズラリと並び、なかなかのにぎわいでした。一生に何か一つは願い事がかなえられるとということで、商売繁盛、無病息災、娘さんたちは裁縫、生花、茶道など、芸妓さんたちは遊芸のけいこ事が上達するよう願かけに参拝し、華やかな色どりをそえていました。
下部に扇が刻まれています。
ところが、清兵衛の亡霊が秀宗公の夢枕に立ち、自分が殺されたことから悪人どもの悪だくみまで残らず話しました。死後まで忠義をつくす清兵衛のお陰で悪人どもは成敗され、お家は安泰であったといいます。
秀宗公はその忠義に感じ、清兵衛の霊を和霊神社にまつりました。
正月の拝殿 いつのころからか、その分社が久保の亀山八幡宮(久保八幡神社)の境内にまつられ、旧暦六月二十三日にはお祭りをしていました。お祭りの夜は「蚊帳待ち」といって、蚊帳をつらないで休むと、旅先で不慮の事故に遭わないといい伝えられていました。
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陣幕久五郎の手形。→ 「わんぱく相撲」の祈念碑です。
一家中起きている家が多く、子供たちは眠気や蚊のしゅうげきを防ぐためになん度も参拝して、屋台のおもちや、氷、すいかなどをねだったり、近所を遊び歩いたりしていました。
また、神前には必ずおはぎをお供えするのが習わしになっていたので、
母親たちは夜なべ仕事におだんごやおはぎを作ってお供えし、夜更けには家族の者にも食べさせていました。
また、清兵衛をおそった悪人は三人だったので、三人で蚊帳をつるのは縁起が悪いといわれていました。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載