相武台よもやま話 「相模野[相模原]台地」 :相武台歴史同好会
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 過去、局地的、実験的な測屋の為の基線はあったけれど、全国統一を目的とした基線では、この相模野基線が日本で最初ということになる。
 現在、2万5千分の一地形図が国土の基本図です。それまでは登山などでも5万分の1地形図がよく使われていました。国土地理院の5万分1地形図は、1890年(明治23年)から整備が始まり、途中縮尺等の変更がありましたが、1925年(大正14年)に35年の歳月をかけて日本全国の地形図が完成しました。地形図を作成するためには日本全国に三角点網の形成が必要です。(現在ではGPS測最が主流となっています)相模野基線は日本の三角測量による三角点網の元となる最初の基線です。北端を高座郡下溝村(現・相模原市南区麻満台四丁目)の一等三角点下溝村、南端を高座郡座間入谷村(現・座間市ひばりが丘一丁目)の一等三角点座間村とし、両地点を結んだ直線が相模野基線です。陸軍参謀本部測思課(後の陸軍陸地測蜃部、現在の国土交通省国土地理院)は、明治15年(1882年)9月から10月にかけて両地点間の測量を行い基線の全長を5209.9697mと算出しました。(誤差を少なくするため全国に15ヶ所の基線場が設けられ、相模野基線は最初の基線場となりました)この相模野基線を元に順次三角測量を行うことにより、全国の一等三角点網の基点となる丹沢山と千葉県鹿野山の間の距離が算出されました。
 百米比較室は、明治35年に当時の文部省測地委員会が相模野基線の基線再測量のために、基線尺を比較検定すべき比較室として建てられました。建物は長さ110m.幅3.6mの東西に細長い建物で、土地の人は「六十間長屋」と呼んでいましたが昭和の初期に廃止されました。
 昭和54年4月、宅地造成中に偶然この地より比較室の標石などが発見されました。その後、当会会長宮原最二郎が古い地図や聞き取りによる調査を行い東端の地もわかりましたので、この地の標石は西端の物と判明しました。現在、標石はこの地下に保存されています。日本測量史上、欠く事の出来ない貴重なこの地を広く認識して戴くために説明板を設置致しました。
 この郷土史家は同市相武台団地二丁目、宮原政二郎さん(八三)で、「日本の近代測量史上、欠くことのでない貴重なこの地を風化させたくなくて…」と話している。
 明治十五年、当時の陸軍地図が作製された際、相模原市麻溝台と座問市入谷を結ぶ延長6km直線「相模野基線」が設けられた。それを基準に全国に三角点が設けられ、現在の地図が誕生したという。
 同三十五年に当時の文部省が相模野基線を再測量するに当たり、測量拠点として中間付近の相模原  宮原さんが理てた「百米比救室」跡の説明板
「はの東」(現・相武台二丁目)に「百米比較室」を設置した。その名の通り幅3.6m、長さ110mの長屋風の木造建物で、室内には長さ100mの軌条があった。昭和初期まで原野の中に立っていたがやがて撤去され、跡地も不明になっていた。
 昭和五十四年(1979年)、宅地造成の最中に偶然、この地から比較室の標石が出土。郷土史に興味を持っていた宮原さんは、国会図書館や国土地理院に何度も通って古い地図を調べ正確な位置突き止めた。さらに、地元の古老に聞き取り調査をして不明だった比較室の東・西端点を確定、独力で正確な位置を突き止めた。
 説明板は跡地の西端に当たる場所に、宮原さんが11万円の費用で五月下旬に設置。百米比較室の建設から撤去、標石発見、正確な位置の確定に至る経緯が記載され、通りから読むことができる。
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