相武台よもやま話 「相模野[相模原]台地」 :相武台歴史同好会
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はじめに

 相武台歴史同好会も創立40年を迎えました。はじめの頃は、講師の方を招いて歴史講座を開催することからのスタートでした。その後、神奈川県内の「史跡巡り」「歴史散策」、そして、昭和58年(1983年)からは、その年度ごとにテーマを決めて活動して参りました。その数は16になっております。 地元の相武台については、戦後急速に発展したため歴史が浅いと言われがちですが、ひとつの町が誕生・成長するには生い立ちがあります。その一部を今日は紹介いたします。
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 「相模原」という地名は、本来“台地の呼び名”の名前であった「相模原」という地名は、本来“台地の呼び名”の名前であった。

  河岸段丘の実感できるポイントは「八景の棚」である。 JRの相模線は、標高30mの相武台下駅から終点橋本駅140mまで河岸段丘を登っていく。

  1:25,000土地条件図「原町田」昭和44年調査に段丘面の名称等を書き込んだ。現在は廃版だがインターネットの「地理院地図」の「土地条件図(初期整備版)」モードで閲覧可能。河岸段丘の段丘面の上下関係を把握するにはこの初期整備版が適している。
 左図の……線の断面図。相模川の両岸に形成された階段状の地形がよくわかる。「地理院地図」の断面図モードで作成した高さは距離の約20倍に誇張。

 台地の表面は、数万年に及ぶ富士・箱根などの火山活動によって、厚い火山灰層(関東ローム層) に覆われ、台地上段では20〜30mにも達する。このため、上段は地下水位が低く水利に乏しかったため、かつては境川沿いを除けば新田以外に集落はなく、ほとんどが雑木林や畑地・草地となっていた。しかし、水道が施設された第二次世界大戦以降は、急速に都市化が進行し、現在では上段の大半は市街地と化し、かつての面影をほとんど見ることはできない。しかし、「横山」「ハケ」と呼ばれる段丘崖には、今日も緑地が残されている。

 また、一見平坦に見える台地面も、良く観察すると凸凹がある。凹地はかつて「ヌマ」「クボ」と呼ばれたが、都市化が進む中で多くは埋め立てられていった。

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