相武台よもやま話 「相模野[相模原]台地」 :相武台歴史同好会
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 基線測量の歴史 我国における測量の歴史を振り返ると、古くは聖徳太子等の時代にさかのぼることができるが、豊臣秀吉の太閣検地が有名である。これは、「一定基準による」日本で最初の地籍測量といえる。 また、地図の作成という点では、「行基図」「伊能図」(路程車等による一定の基準を使った日本全図)等が有名である。 しかし、いずれも日本全体を見た場合には不備なものであった。

 そこで明治11年(1878年)に参謀本部陸地測M部(国土地理院の前身)は、全国の統一した測量計画を立案、同12年に基本計画を樹立した。 同計画を実行するため、フランスより測量器材を購入し、関東地方で地図作成のための測量を皮切りに全国測量の実施に着手した。 同15年には相模野において最初の基線測量を実施。16年に同基線からの三角測量を、また同時に一等水準測量を開始した。

 17年には、海軍麻布観象台(現在の港区麻布)に経緯度原点を定め、方位角測定を完了し、三角測量の計算原子として決定し、高さについては、明治24年に水準原点を決定することにより、現在の地図及び各種測量の水平位置及び高さの基準が完成した。
 例えば東京から北へ角を測ってゆくと、各観測点において、器械の設詫段階での誤差や、観測者の目の違い等(個人差)による誤差がどんどん累積されてゆく。これでは、東京と北海道、あるいは九州、沖縄とが同じ精度で位誤の決定がなされたとは言えない。そこで、全国14カ所、約200kmに1カ所の基線を これらの誤差の累積を最小限に押えることにしたわけである。

 基線は別表に示すとおり、3kmから5km位のほぼ直線の場所を選ぶ。直線状に杭を打っていき、その杭の中心に指標を設け、高さ及び長さを測って最終的に基線の長さを決定する。

 長さの測定は、当初はアメリカより導入した、ヒルガード測鋅(そくかん)とよぶ4mの長さの物でおこなった。また、大正以降の改測では、インバール基線尺と呼ぶ25mの尺を使用した。いずれも当時のメートル法の基準であるメートル副原器(現在、通産省工業技術院計代研究所に保管)を用い、精密な検定を行っている。

 基線決定粘度は、各基線によって異るが、数百万分の1から1干万分の1という高精度で決定されている。(5km基線で1mm前後の誤差)
 明治15年(1882年)3月15日、測量の基線を置くことになり、当時の下溝村ハの芝野(現在の相模原市麻溝台2099番地)に相模野基線の北端点が置かれた。南端点はひばりが丘一丁目にある。この南北両端の基点の間を測量して正確な距離を算出した。この場所はその基線の中間点である。

 南北間の距離を底辺とし、三角形の西の頂点を鳶尾山(海抜255m厚木市中荻野)、東の頂点は高尾山(海抜100m横浜市港北区長津田)とした。底辺の距離の測量により、南北各辺から頂点への距離は算出できるのである。この後この三角形はさらに南は平塚の浅間山、北は武蔵の蓮光寺村、西は丹沢山、東は上総鹿野山を頂点として漸次全国的な三角網として拡大されて行った。

 基線を設ける条件は、広い平担な原野で見通しがきく、空気の澄んだ土地でなくてはならず、当時の相模野は現在と違いこの条件に最も適していた。そこでこの基線の測量結果が良かったので、明治16年(1883)5月には一等三角点に採用された。
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