竹製の龍(夏になると、龍の顔が目立つようになります。)
【伝説 御袖天満宮の筆塚】
むかし、子どもが寺小屋へいく年齢になると、親は子どもを連れて天満宮へ参拝しました。 学問、手習いの上達を祈願しての帰り道、土人形の天神さまや天神さまを描いた掛軸を買ってもらい、机の前に置き、
いつも眺めて心のはげみとして勉強していました。
また、社殿裏の石垣のすき問に筆をさし込み、書道に精進すると、上達する人の筆は鉄に変わるといういい伝えがあります。
このような天神さまの徳をたたえるため、天保十二年に、石垣にさし込まれた筆や社殿に奉納されたたくさの筆を社殿横の池のそばに集めて埋め、その上に筆の形をした花崗岩製の筆塚(高さ2.8メートル)を建てました。
玉湊富之進、生野五兵衛が世話人となって、石工の島屋勘十郎が彫ったものです。
向って左端にたてる高さ1.2mの石柱は旧幕の名士で、子爵山岡鉄舟が揮亳した社標。
一見したところ鉄製のように見えるが、これは石川県などに産する鉄分の非常に多い浮金石であるため表面が酸化し茶禍色に見える。
池に面して石碑三基。もしこの池を硯にたとえるならば向って左側から、浮金石の社標が文鎮、筆塚が毛筆、霊験碑が刻印付の墨に、そして初夏になれば美しい花をつける石碑上の藤棚が半紙となり、習字用具が揃うことになる。
西側の池に面し石碑が三基たてる。拝殿寄りから霊験碑、筆塚、社標とつづく
明治になって義務教育制になると、小学校入学前後には天満宮へお参りするのが習わしとなりました。
今でも受験シーズンには、受験生や親たちが合格祈願にお参りします。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」
(2002年5月刊)より転載
この池を硯にたとえるならば、左に長く立っている浮金石の社標が「文鎮」、筆塚が毛筆、霊験碑が刻印付の墨に、そして初夏になれば美しい花をつける石碑上の藤棚が半紙となり、習字用具が揃う。
この池の後ろに、達筆祈願の石筆があります。
真ん中にたてる筆塚。毛筆そのままを型どり、中央に「生華」と刻まれ、天保十二年(1841)西久保町、玉湊画廊の祖先玉湊富之進と生野屋五兵衛が世話人となり、島屋勘十郎がノミをふるい、奉納した肇を埋め完成させたもの。
生玉茂七と云う若者、手提金庫の泥棒よぱわりされ、井戸に入水自殺を図ろうとし、信心している天神さんにすがってみたらと言われ。井戸水で身を清め一週間一心に祈願した。満顯の日に友達が「犯人がわかったぞ」と飛んでしらせにきた。天神さんの霊験に感涙し、菅公の止め銭を刻み霊験碑としてたてたもの。