【民話 力じまんの和七】
明治の初の頃のことです。尾道の港の仲仕たちは、畳表を上げ下ろしする表仲仕と、海産物を上げ下ろしする浜仲仕とに別れていました。
表仲仕の和七は心やさしく働き者でだれにもまして力持ちでした。
そんな和七の鼻をあかそうと、浜仲仕たちの考えたのが、天神さんの五十五段の石段を、三十貫の鉄棒を二本担いで下りることです。
この挑戦を和七はうけてたちました。そして当日、大勢の見物人に囲まれて和七は、六十貫の鉄棒を
この石垣も見事、尾道は「石」の加工も一つの見所ですね。
この石垣の作り方には、何か特別な意味があるのでしょうか?
いっきに胸まで持ち上げると、石段の中程まで下りていきました。しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、石段の中程まで下りていきました。しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、
一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、すべての力をふりしぼって、最後の一段を下りきりました。その後表仲仕と浜仲仕のいざこざもなくなりました。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」
(2002年5月刊)より転載
「坂の町」尾道にとって石段は見なれたものであるが、浅野芸州藩主夫人が寄進した随神門から本殿までの五十五段は石段のなかの石段といえる圧巻。おそらく随神門と前後し享保年中(1716~36)につくられたものであろう。
長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。
上から二段目の1段のみわざと継いでいます。「完璧は災いの元」と思った石工の心遣いでしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
その後、最上段だけは、枯れた松を伐採したとき、倒れた松が石段の最上段に当たり割れが生じた。
この時の職人さんは、二段目につなぎあったので、少しは救われたでしょう。
ここにも、日本の伝統「未完成の美学」があるのですね!