日蓮像(高村光雲作)
鎌倉に入った日蓮は、はじめは庵を持たすに“辻説法”と呼ばれた独特の市教活動を行い、大衆に法華経を説いた。
その頃の鎌倉は大地震や洪水などの天災が続き、また疫病流行するなど深刻な社会不安に陥っていた。日蓮はこのような社会の状態を仏教的に解釈し、法華経の功徳が人々を救うとして文応1年(1262)に「立正安国論」を著して、幕府の第5代執権の北条時頼に差し出したのであった。
日蓮は、その中で国内に内乱と外寇が起こることを予言し、それらに対処するためには法華経に頼ることしかないことを説いたが、時頼は相手にせず無視した。
日蓮は1222年(承久四年)、いまの千葉県小湊の豊かな漁民の子に生まれた。当時、源実朝は暗殺され(1219年)、源氏の血統は絶えていた。承久の乱の翌年であり、北条執権が権勢を高めた時代である。
十二歳になったとき天台宗の清澄寺へ入り、薬王丸と名づけられた。
「日本第一の智者となさしめたまえ」
と虚空蔵菩薩に祈ったという。
十六歳のとき諸国遊学の旅に出る。出家して名を蓮長とあらためた。鎌倉にしばらくいたのち比叡山に上り勉学にはげむ。
三十歳前に京都の諸寺や高野山、四天王寺などで各宗の教義を学ぶ。そして法華経こそ真の仏説であると考え、清澄山に帰る。
1253年(建長五年)4月28日、清澄山の山頂から海に昇る朝日にむかって「南無妙法蓮華経」の題目を十遍ほど大声で唱え、開宗した。
このふるさとに近い地で禅や念仏を邪宗と攻撃、とくに浄土宗とは烈しく対立したため迫害を受けて鎌倉へ逃げるようにおもむいた。
そして名越の松葉ヶ谷の草庵に入った。
(「鎌倉の寺社122を歩く」愼野 修著より