中国に伝えられ、甲冑を着けた武将形へと変わります。
日本には、仏教伝来とほぼ同じ時期に持ち込まれ、飛鳥時代から信仰されてきました。日本最古の歴史書『日本書紀』によれば、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部(もののベ)氏が争った際に、聖徳太子は蘇我氏の戦勝を四天王に祈願したと記されています。戦には勝利したため、大阪の四天王寺が建立されました。
(「イラストでわかる日本の仏さま」日本の仏研究会編集より)
四天王は、須弥山(しゅみせん)世界の守護神で、持国天、増長天、広目天、多聞天の四尊をいいます。須弥山のまわりには、北俱盧洲(ほっくるしゅう)、東勝神洲(とうしょうしんしゅう)、南嗜部洲(なんせんぶしゅう)、西牛貨洲(さいごけしゅう)がありますが、須弥山の中腹にある四天王天に住み、それぞれが四方四州を護る役割を担っています。帝釈天の配下でもあります。
インドでは仏伝図などに初期のころから登場しており、現在のような念怒相ではなく、穏やかな菩薩に似たすがたをしていました。
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日蓮は鎌時代前期の貞応1年(1222)に安房国に生まれ、12歳の時に天台宗清澄寺に入って16歳で出家した。その後に京に上り、比叡山延暦寺をはじめ京畿の天台宗の一者寺で修業した後に、故郷の清澄寺に戻った。
しかし、日蓮は修行中に法華経に帰依するようになり、帰郷後はその信仰を強く主張し始めために、清澄寺の僧たちとの間に対立が生じ、それが次第に深刻なものになっていった。そのため翌年に寺を去り、法華経の信仰を広めるべく鎌倉に向かった。日蓮が32歳の時のことでした。
帝釈堂の前に台座を含む高さが約8mもある大きな日蓮の銅像が立っています。この銅像は近代日本の代表的な彫刻家の高村光雲(たかむらこううん)の作です。東京の洗足池(せんぞくいけ)のほとりから長勝寺裏山の墓地内に移され、今は帝釈天や仏の世界を守る持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天
(こうもくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)ともいう多聞天(たもんてん)の四天王とともにまつられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より