天邪鬼(あまのじゃく)は煩悩の象徴だが、もともとは水神の名前であり、毘沙門天のベルトについている鬼の顔が原形。
多聞天の別名です。七福神にも入ってる人気者ののですが、「へそ曲がりや天邪鬼(あまのじゃく)な人だけがそうなるのではなく……」などと使われていますね。
梵鐘は文政十年(1827)四月に鋳造され、口広三尺高さ六尺あります。
昭和十七年(1942)第二次世界大戦の折、金属回収令によって供出されましたが、昭和二十年(1945)終職後、岡山玉野の精練所で発見、無傷で返還されたものです。(案内板より)
天水鉢をささえる八体の天ノ邪鬼
「天邪鬼」が雨水の用水鉢に押さえつけられているのは面白いですね。
あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。(「郷土の石ぶみ」より)
何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。
天ノ邪鬼は元のままであるが、天水は小さくアクセサリー用につくられたものか、樋をつけた関係で雨水があつまり、このためあまり用をなさなくなり、庫裡正面玄関前に据えかえられ、現在の天水は昭和十四年、先代まで石屋だった久保二丁目、肖壕画家溝上豊太郎氏の父民平によりつくられたもの。
古い天水は破風造りの庫裡前におきかえられ、こちらの方はひとまわり小さい矩型に出来あがり、匠屋喜兵衛が寄進し、石工新八・天保十三年(1842)と刻まれ、邪鬼もこの新八の手になったものであろう。このため元のものより大きい天水を背負わされ押しつぶされたような感はあるものの、尾道以外には見ることの出来ない石彫だけに、これ以上損じないようなにか保護する方法はないものだろうか。(「郷土の石ぶみ」より)