本堂は、尾道一の大きさです。
畳16枚ぐらいの鬼瓦をのせています。
【伝説 案外さんと残念さん】】
江戸末期、尊皇討幕の声が町にあふれ、まさに明治維新がはじまろうとするころのことでした。長州の軍は天下に先駆けて東進し、まずその門出の一戦で徳川譜代の福山藩討伐をしようとの計画で、
意気揚々と尾道に乗り込んできました。当時の尾道の人々は、
「天子さまのご政治になるのだ。明るいご政道が行われるのだ」
と喜び合い、町を挙げてこの軍を迎えたそうです。老若男女いろいろな人が朝も晩も、
「菊は二度咲く、葵は枯れる、
西にくつわの音がする」
と歌ったといいます。
こうしたなかに、久保の浄泉寺に宿泊していた長州軍の中に一人無頼の者がいました。町の人たちの親切も考えず、酒を飲み歩き、民家に押し入っては
家族をおどかして金品を奪い、軍規を乱すことが度々でした。
ある日のこと、この者に上官のところへ来るようにという命令がありました。彼は同僚に向かって、
「どうだ、自分の勇気をほめて恩賞をくださるのだ」
と胸を張って大笑いしました。やがて上官の前に出ますと、これは意外、自分の考えと違って短刀と白装束を前に差し出されました。
「おまえは自刃してその罪をつぐなえ」
ということです。
彼は驚いて一生懸命助命を願いましたが許してもらうことができず、
と彼は人々の先に立って夜明けに出発し、左右には目もくれず一目散に東進しました。ちょうど伊勢宮あたり(今の松永東部)で朝食にしようと休憩中、敵の伏兵に発見され、一戦を交わすことなく斬り倒されてしまいました。彼がいかに残念であったかその心情を思い、「残念さん」といい伝えています。
案外さんと残念さんの墓は、大山寺の墓地にあります。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載
かめが前のめりになっています。
ついに切腹しなければなりませんでした。案外なことなので、町の人たちはこのひとに「案外さん」とあだ名をつけました。
また同じくこの軍に従って大山寺に宿泊していた者の中に、たいへん早合点する軽率な兵士がいました。それでも彼は自分のことを、
「わたしは敏速で才智があるのだ」
と自慢していました。
その後まもなく、
「福山城の背面を攻撃せよ」
という命令が下りました。
「功をあげるときがきた」
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水盤銘は頼山陽筆。
正面に「離垢」(りく)(煩悩を消し去ること)と大きく刻まれています。
この鐘撞堂は享保八年(1723》九月に建立され、文政十三年(1830)三月 八世順盛代に修復され明治二十四年(1891)山陽鉄道開通にともない現在地に移建されました。
平成九年(1997)に修復と屋楓瓦葺替工事がなされました。(案内板より)