住吉神社
尾道市土堂二丁目  標高:2.5m
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 住吉大社の祭神は日本を代表する海の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・
・中筒男(なかつつのお)命・表筒男(うつつのお)命と神功皇后です。
 神功聖后が三韓征伐の際に携えた弓矢は、神々が授けたものとする説があり、また神功皇后が弓の名手だったとする伝承が各地に残っています。
 神功皇后は、夫である仲哀天亨か急死し、以隆70年近くにわたり国政を仕切った。朝鮮半畠に出兵して新羅を隆伏させる「三韓征伐」など、西国を活動拠点としたが、三韓征伐の後は畿内に帰還した。
 おなかの子どもは武神・八幡神。その子どもが母を動かしたという説もあります。
 神功皇后に注目してみると、
 なぜ『日本書紀』は神功皇后の「即位」を認めなかったのか、『日本書紀』以外の文書のなかで、神功皇后は天皇の扱いを受けているのに、『日本書紀』
だけがそれを認めようとはしない。神功皇后が八世紀の朝廷にとって厄介な存在であり、「処理」に窮したあげく、曖昧な記述でお茶を濁してしまった……。あるいはそうせざるを得ない何かしらの事情があったのではなかったか? 『日本書紀』の「神功皇后隠し」という推理は、結論が出ない不可解さがあります。




 雁木(がんぎ=船着場の階段になっている所)が復元されています。この辺りの満潮と干潮の高低差は、最大3.7m、平均は2mあまりです。
(この写真は、干潮の状態)
昭和初期

 常夜灯が右の方に見えます。
 住吉神社横にコンクリートで再築された雁木は、往時をしのばせる。
 18世紀中頃の尾道商人の取扱いによる物資と量の拡大は、当然港湾に接する埠頭(ふとう) の拡大を要求する。住吉浜というのは、当時における商港尾道のほぼ中央海岸にあたる。尾道は、かつての神戸を縮少したような港町で、後背部は千光寺山に接した帯状の地形の上に成立している。商家は、わずかに狭い海岸に沿うて立ち並んでいる。港勢が発展し、商品流通が盛んになると、荷揚場の拡張が必要になる。そこで、拡大する流通商品に刺激されて、港湾埋立が続行する。そのうちの大なものの一つが住吉浜なのである。商人の要求によって築造されたが、
冥加銀を含めて収入84貫93匁になるから、差引21貫余の利益になっている。
 平山角左衛門は築造完成と同時に、浄土寺境内から海上神である住吉神社を勧請(かんじょう)して、埋立地の一部に祀(まつ)ったので、この埋立地を住吉浜と称するようになった。
(「尾道市史 第二巻より)
これは藩営によって着工された。「泉邸文書・吉長公御代記」によれば「此築出之儀ハ、出来ノ上御払地に相成り、御利潤有之、其上永久御徳用所ノ者、売買、荷揚場船繋モ能、自然と繁昌/基ト可相成ルトノ旨、尾道町奉行平山角左衛門深考」の上、築造にとりかかったと記している。
 平山角左衛門は元文六年(寛保元年、1741)三月六日工事に着手した。すなわち中浜の沖手へ、長さ92間、幅7間。埋立坪数654坪である。支配役は平山奉行、尾道の町役人、商人がこれに参加し、完成は着工後二ヶ月の突貫工事であった。
 完成後の総坪数は、報告文書、その他の記録に
よって、かなりの差があるが、築造工費と完成後の措置それに対する詳しいことは別稿に譲ることとして、泉邸文書によれば総坪数635坪5歩4厘、工費63貫55匁を記し、資料によって多少の違いがある。尾道側では、浜手二間幅を荷掲場とした官有地としてもらいたいと願い出たが藩はこれを許さず、全部を浜商人に買い取らせた。浜商人は、自家と埋立地の荷揚場とが、直接に並んだ共通地域を、自然購入せざるを得なかった。尾道市役所文書によれば「荷揚場等に充つべき共有の地、悉皆は冥加銀として、毎年二貫目ずつを永代上納することにした」とあるから、結局は、藩府の譲歩に決したようである。最後の決算では、












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