尾道 海の駅
尾道市土堂二丁目  標高:2.7m
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遣明船

 遣明船が行く、尾道の港を遣明船が出る。守護山名の船も加わった。
 領国の備前、備後、美作から産出する銅を尾道で積んだ。其阿弥造る日本刀も積む。
 山名一族は西国寺寄付帳に「毎年あるいは例年」と書く。
 応仁の乱に、山名宗全持豊は、西軍の総大将だった。
江戸時代

 応仁の乱から戦国へ、関ヶ原から大坂の陣、次いで島原の乱。
 ようやく平和が訪れる。徳川三百年、やがて西回りの航路の開発。佐渡へ、能登へ、住吉浜修築成る。
 奉行は平山角左衛門。
 出雲路、赤名を越えて、銀の荷駄は尾道へ、ここから船で大阪へ。




北前船

 北前船が入る、港が沸く、大人も子供も港へ。船頭を迎える手代か行く。芸子もお化粧、懇ろに。
 上り荷は鰊、塩鮭、諸国産の米。
 下り荷は塩、酒、綿、酢、畳表。
 天空を走る米相場、狼煙の報せで、一上一下。
 尾道は浅野藩の台所なり。苗字帯刀の豪商、多かりし。
文人尾道へ

 茶山先生、山路越え、友の墓は光明寺。帰りは、愛弟子玉蘊を訪う。
 久闊の辞は微笑んで、今宵の宿は油屋へ。論語の講義と誌の会だ。女画史また来て、席画なり。
 山陽、星巖、竹田に登々庵も棕隠も。当代一流の文人が、古鏡を見ては、誌を寄せる。
富籤

 四隣に名高い尾道の富籤興行は、慶応元年(1865)四回、上は大阪、下は馬関、買い手は島からも来た。
 値は一枚一朱、四人の共同買いもあった。
 船宿の船頭も買う、みんな買うた。
 一等は千両、二等は五百両、三等は三百両。
 喧騒、雑踏、足の踏み場もない。
明治維新

 慶応三年(1867)秋、徳川幕府、大政を奉還。防地峠を挟み、遠来の長州兵、福山藩と対峙、一触即発。
 三年前、諸藩の兵はここを越えて長州征伐に西へ向かった。
 京は東へ、「安芸は朝駆け、三原は三日、備前岡山通り駆け」
 長州兵の意義、天を衝く。
西南戦争

 明治十年(1877)二月十日、豊後水道を登る。軍艦一艘、海軍大輔川村、旧友西郷の説得ならず。
 急を政府に告げんとして、ようやく糸崎に、使者は尾道電信局へ走り、「西郷の決起近し!」と、飛電、一閃。大阪へ、東京へ、熊本へ。
 西南戦争勃発す。




山陽鉄道

 山陽鉄道敷設を巡り、町は二分。市内貫通の是非を問う。
 投石頻発、白壁は泥に塗れ、ついに警官隊出動。
 この時の立退き、民家4064坪、寺院150坪、神社64坪。
 明治二四年(1891)十月三日、山陽鉄道ようやく開通。
 翌年十一月、尾道商業会議所認可。全国で三十番目。
太平洋戦争

 今夜、敵機また来襲。東京は焦土、大阪も焦土、ここも焼かれ、かしこも焼けた。
 日本中みな焦土。広島に原爆落ち、遠く今治も空襲見ゆ、福山もやられた。次は尾道か。
 家財を積み、田舎の親戚を頼る人。線路際の建物みな取壊し。
 しかし、尾道は焼けず。
 戦国の動乱にも、維新の風にもめげず、堂塔伽藍のたたすむ町。
未来

 平成十一年(1999)五月一日、橋はついに海を渡り、「しまなみ海道」ここに始まり、今治へ一潟千里。
 尾道水道も、布刈の瀬戸も、市内を流れる川の如し。
 海を擁する町、遠い昔、瀬戸内海はわが庭だった。やがて、次の時代が来る。
 瀬戸内海の十字路として、空に、海に、新しき時代が……。
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