尾道 海の駅
尾道市土堂二丁目  標高:2.7m
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 大正5年ころの荒神堂浜にあった大阪商船会社の桟橋(現在の中央桟橋)である。横着けになっているのは大阪通いの同社の汽船。
 商船桟橋を離れて東航する大阪商船の汽船が見ある。左側には、このころから帆船に代わって流行した機帆船(発動機による推進装置を備えた帆船)。中にまじって帆船の姿も見える。
 昭和5年ころの尼崎汽船桟橋と兼吉の渡し、雁木(船着き場の石段)には島回りのの機帆船が着船し、客が乗り降りしている。大きな洋館は尼崎汽船会社の営業所で「向栄社」と呼ばれていた。
 昭和22年のはじめころに、大阪商船会社の桟橋のあとに完成したばかりの中央桟橋。着船しているのは当時の関西汽船所属の汽船で、その向こうには発動機船(ポッポ船といった)がとまっている。岸壁に積まれた貨物は、大八車(大きな二輪の荷車)からトラックへの時代である。




尾道の歴史が、石に刻まれています。
 明治31年頃の尾道を描いた絵馬。     
 天下分け目の関ヶ原の後、日本のあちこちに城下町が生まれた。尾道は違う。古くからの港町だ。江戸は大名小名の上屋敷、下屋敷が軒と連ね、武家の人口は五割、町民と相半ばした。
 天下の台所、大阪はどうか。商人、職人、行商人、その家族を含めると、町民が圧倒的に多数。武家の人口は一割だった。
 尾道はどうか。文化文政の頃(十九世紀始め)尾道の人口は一万人、西の端に町奉行所、東の端には番所、浅野藩から出向いた武家の人口は、百分の一、ここは商人のまちだった。




 足利尊氏

 船団が征く、貝を吹き、銅鑼を鳴らし、布刈の瀬戸を埋めて、足利の船団が征く
 軸艫千里、兵庫へ、島は重なり、水は重なる
 御大将尊氏公は麾下の幕僚を従え、浄土寺へ参籠して必勝祈願。また、余裕綽綽
 三十三首、法楽の和歌を奉納する
 建武三年(1336)五月五日
足利義満

 三代将軍また海を征く、讃岐へ、次いで周防へ、厳島参詣に名を借りた諸大名への示威だった。大内氏も膝を屈した。
 帰途は尾道、守護の山内氏も出迎える。舟橋を架け、義光将軍は天寧寺へ宿る。
 その頃、尾道の海は広かった。
 時に、康応元年(1389)春。
朝鮮使節

 応永二六年(1419)応永の外寇、京へ向かう朝鮮使節。
 風待ち、海賊との交渉待ちに往復、尾道へ。
 「老松堂日本行録」にいう。
 「人家は岸に沿いて密集し、寺院は山上に連なり巡る」
 天寧寺の高僧と漢詩を応酬すと、浄土寺、海徳寺、ついで、常称寺、天寧寺、宝土寺と五かじ寺を歴訪して、誌を賦す。
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