本堂に向かって右側から本堂の裏に登っていくとお堂があります。
熱心な日蓮宗徒でもあった加藤清正(1562-1611)
安土桃山時代の武将で通称を虎之助と言う。尾張の人で幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人熊本城主であり文禄・慶長の役の先鋒関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後五二万石領主となる。
加藤清正といえば、勇猛な戦国武将であり、同時に築城、治水、干拓などの土木技術にも優れた能力を発揮した人物としても知られています。
また、朝鮮半島に渡って戦っていた時期に、虎退治をしたことでも知られています。
ある時に清正の軍勢は、朝鮮の大きな山の麓ふもとに陣営を構えていたことがありました。
やがて夜になると、山に住んでいる大きな虎がやって来て軍馬に襲いかかり、それをくわえたまま、宙を飛んで陣営から逃げていきました。
馬をくわえてそのまま跳躍したのですから、
この時に清正は大きな岩の上に登り、家臣たちに指示を出していましたが、虎の突進にも、まったく慌てることはありませんでした。
清正は鉄砲を携えていましたので、落ち着いて虎に狙いをつけます。
虎と清正を隔てるのはおおよそ三十間(54m)の距離で、当時の火縄銃でも、十分に有効な射程距離でした。
虎は鉄砲で狙われていることに気がつき、清正をにらんで立ち止まります。
そして清正の家臣たちも鉄砲を構えて虎を撃とうとしますが、清正は「撃つな!」と命じます。
加藤清正を祀る清正を祀る清正堂
相当に大きく、力のある虎だったことがわかります。
この報告を聞いた清正は、「なんと口惜(くちおしき:悔しい)ことよ」と言って、おおいに怒ります。
虎はすっかり味をしめたようで、翌日には清正の小姓(こしょう:側仕えをする家臣)・上月左膳(こうづきさぜんもかみ)が殺されてしまいました。
たび重なる襲撃に清正は激怒し、かくなる上は虎を退治してくれんと、家臣たちに命じて山を取り囲ませます。そして山を探索するうちに、やがて一匹の虎が萱原かやはらをかき分け、茂みから飛び出して来ました。 そして大将である清正を目がけて疾走して来ます。
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加藤清正と「セロリ」
セロリは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)の時、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったため、「清正ニンジン」の別名があります。
そう言えば尾道では「トウモロコシ」のことを「コウライ」といいます。トウモロコシは1579年にポルトガル人によって伝えられたのが最初といわれていますが、なぜ朝鮮半島の国、高麗(918年~1392年)と言われているのでしょうか?
そうして家臣たちに手出しを控えさせたのでした。
「わしが自ら、この虎を撃ち殺してくれよう」と言い放ち、家臣の仇討ちに燃える心情を露わにしました。
やがて覚悟を決めた虎が、再び清正に向かって突進し、間近まで迫ると、口を開いて牙をむき、飛びかからんとします。
清正はそれに対し、虎の喉を目がけて銃弾を発射すると、これが見事に命中し、ただの一発で虎は地面に倒れ伏します。
そして虎は起き上がろうともがくのですが、急所を撃たれたためにこれを果たせず、そのまま絶命しました。