華厳山 金剛寺(曹洞宗)
厚木市飯山  標高:67.4m
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 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
この忠州が、曹洞宗金剛寺の開祖となります。
 人々は忠州を慕い、三月二十一日のお祭りのときは、忠州作のご詠歌も行われ、賑わいました。

【出典】『厚木の伝承と地名』『厚木の社寺縁起・地蔵めぐり』


「破壊された石仏」

 路傍に置かれた石仏や寺院の境内の地蔵菩薩などで、首が欠けたり顔や腕が削られたりした傷ましい石仏を見ることがあります。それらは明らかに人為的な破壊行為によって生じたものです。
 石仏に対する破壊行為が起こった背景には、明治維新後に新政府が公市した「神仏判然令」とそれによって影響を受けた「廃仏毀釈」と呼ばれた仏教の排斥運動があったのです。一般にあまり知られていなませんが、かつて明治の初年に全国的に広がり、多くの石仏が受難しました。
 この石像達は、畑の中に埋まっていたそうです。そのためか、お堂のまわりに並べられています。
 これらの石仏は、「廃仏稀釈」での破壊を逃れるためこの寺の関係者達が畑に埋めたのでしょうか?
 厚木地方には廃仏稀釈で壊された石仏が多くあり、過激な仏教排斥運動が起こっていたのでしょう。その運動によって壊されることを免れるため、知恵を出し合い畑に埋めたのでしょうね。




 聖徳太子の時代から千年以上続いた神仏習合の風習は、明治維新とともに終焉をむかえました。「神仏判然令」をきっかけに「廃仏稀釈」という過激な仏教排斥運動が起こり、仏教の地位は大きく下落。それと反比例するように、神道は日本国民全員が信奉すべき、国教へと地位を上げていったのです。
 もちろん太平の江戸時代にも、古代の神々への信奉は、庶民の暮らしのなかに息づいていました。しかし、天皇を君主とする神権政治の復活をめざす明治政府にとっては、たんなる信仰だけでは不十分。政府は古代神話が語る皇室の権威の正当性を強調し、とくに皇室の先祖である皇祖神への信奉を奨励したのです。


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