20世の天秀尼(てんしゅうに)は豊臣秀頼(とよとみひでより)の娘で1615年(元和元年)、大阪落城の後、徳川家康(とくがわいえやす)の命令で東慶寺に入り、「縁切寺法」を確立しました。天秀尼にっいては次のような話もあります。
会津藩(あいずはん)の第2代藩主であった加藤明成(かとうあきなり)は、重い税を取り立てるなど領民を苦しめる政治を行っていました。家老の堀主水(ほりもんど)はそれを止めさせようとしましたが、聞き入れてもらえず、妻子らとともに会津藩を出て行きました。それに怒った明成は藩の軍勢を使って主水らを探
川柳に、
「出雲(いずも)にて結び 鎌倉にてほどき」
「松ヶ岡 男をみると 犬がほえ」
というのがあります。
江戸時代には、縁切寺法を頼ってこの寺に駆け込む女の人が多かったようです。
昔は結婚した女の人は、夫が乱暴であったりわからずやであったりして、一緒に暮らすことがつらくても、夫が許さなければ別れることができず、一生つらい思いをしていなければなりませんでした。そこで、そのような女の人が、この寺に入り、寺の決まりに従って3年間(後に実質2年間になりました)修行する
夏目漱石参禅100年記念碑
させました。明成の報復を恐れた主水は、妻子を天秀尼がいる東慶寺に預け、自分は明成の追っ手から逃げていましたが、やがて捕まり、処刑されてしまいました。さらに明成は、天秀尼に対して主水の妻子を引き渡すように迫りましたが天秀尼は受け入れず、主水の妻子を守り通しただけではなく、将軍・家光(いえみ
つ)に訴えました。このことがきっかけで、明成は幕府から罰せられ、加藤家の領地は40万石から1万石へと大幅に減らされてしまいました。
このような弱い立場の女の人を救う寺ですから、寺役人以外は男子禁制(8歳以上)で、親でも男は寺の中には自由に入ることはできませんでした。
と離縁することができるようにしました。この寺の役人から男の人に呼び出しの手紙が行くと、男の人は、村の名主(各村に1名から数名いた)と一緒に寺の役所に来ていろいろと話し合ってから、
「夫婦でなくなります。」
という証文を書き、別れることができたそうです。
この「縁切寺法」は、このように実際に離縁させるためだけではなく、女性が東慶寺に駆け込むことによって離縁することができるということで、夫に自分の行動を反省させ、悪い点をあらためさせる効果もあったようです。
このようにして、多くの女の人を救ったため、
「駆(か)け込(こ)み寺」とか「駆(か)け入(い)り寺」と呼ばれるようになったといわれています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より