としての寺法を保障したと言う。ちなみに、この助命された娘は、家康の孫娘の千姫を義母としていたことから助命されたのであり、この東慶寺の二十代住持となり、子の尼寺の寺法を守り続けたと言われている。
「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社より
東慶寺が開かれたのは、鎌倉時代の弘安8年(1285)である。八代執権・北条時宗が34歳という若さで急死、時宗の夫人だった覚山志道尼が、その菩提を弔うために開山したといわれている。息子である九代執権・時貞がその後ろ盾になったことから、東慶寺の寺格は高く、その後、東慶寺の住持には品格の高い
女性が引き継いで寺の隆盛を守った。そして、明治時代まで縁切り寺として連綿と寺法を維持し続けたのだった。
関ヶ原の合戦から大阪夏冬の陣を経て、豊臣家が滅亡した折、豊臣秀頼の娘を「まだ幼い」ということでこの尼寺に移すのだが、このときに家康が駆け込み寺
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本堂。
本堂内部。
泰平殿(たいへいでん)と呼ばれる銅葺で宝形造(ほうぎょうづくり)の仏殿には、本尊の釈迦如来像や覚山尼(かくさんに)・用堂尼(ようどうに)・天秀尼(てんしゅうに)像があります。
仏殿の脇の水月堂と呼ばれる観音堂には、公開されていませんが、水月観音(すいげつかんのん)像という
室町時代の美しい観音像や聖徳太子(しょうとくたいし)像があります。
仏殿から塀にそって参道を進むとい左側に梅林や茶室があり、右に「松ケ岡宝蔵」と呼ぶ宝物館があります。宝物館にある太平寺(たいへいじ)の本尊聖観音(しょうかんのん)像(国重文)は、中国の宋の影響が強、
く土紋(どもん)といわれる模様が見事です。初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも)(国重文)は、室町時代のものとみられ、「あこだ形」というアコダウリの形をした香をたく器です。漆器(しっき)の表面に金銀の粉を散らして梅の花とウグイスを描き、「ウグィスの初音」を表しています。
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