海龍寺(真言宗)
尾道市東久保町22-8 標高:22.8m
【民話 海龍寺と蛇が池の竜王さま」
浄土寺山が、深い森であった頃のことです。その森の中に「蛇が池」という池があって、大きな龍が住んでいました。
龍は、気候が良く景色も良いこの静かな池が大そう好きで、楽しく暮らしていました。
龍はこれまでに、日照り続きになやむ人々の願いにこたえて、雨を降らせたことが何度かあります。
それで人々は、龍を「龍王さま」と呼び、恐れと尊敬で日ごろは池に近づかないようにしていました。
その年の夏も長い日照りが続き、稲も野菜も日
みんなの心が、雨乞いの声となって、山々にこだましました。
すると、やがてあたりはまつ暗になり、ドドドドッと水しぶきを上げて、池の水面に龍が姿を現しました。
龍は、まつ赤な炎をロから吹き出しながら、割れ鐘のような声を上げました。
「おまえたちの願い、聞きとどけよう」
それから、龍は天に向かって高らかに呪文をとなえはじめました。
「風よ、来れ
雲よ、来れ
雨よ、降れ」
ピカッといな光りが走走り、雷が鳴り響き、たちまち大粒の雨が降りだしました。
に日に枯れはじめました。
あちこちで、雨乞いの火がたかれましたが、なんのかいもありません。そのうち井戸もかれ、底を見せはじめ、人々は龍Eさまへお願いするしかありませんでした。
ある日のことです。
人々は松明を手にして、裏山から蛇が池へと向かいました。
「蛇が池の龍王さまあ、蛇が池の龍王さまあ。また、わしらの願いを聞いてつかあさい。この日照り続きで、みんな難ぎをしとります。どうぞ雨を降らせてつかあさい。龍王さま、お願いします」
このお堂は、阿弥陀如来を、ご本尊とする阿弥陀堂であります。当山では、位牌堂と呼ばれています。江戸期より死者の為に家の仏壇にお位牌をまつると共に、この位牌堂にもお位牌を作り、まつる習わしが、現在も続いています。ご本尊、阿弥陀如来様は、柔道家西郷四郎(姿三四郎のモデル)が晩年期、祈ってい
た念持仏です。
大本山浄土寺の塔頭、吉祥坊(浄土寺を出、線路沿いに西に行くと西郷四郎の像があり、その左上にあったがいまは廃寺)のご本尊であったと伝えられています。(案内板より)
人々は
「龍王さま、龍王さま」
と叫び、おどり上がって喜びました。
長い平和な年月がたちました。
浄土寺山の深い森も、裏山の方から次々と耕され、
開けてゆきました。
蛇が池はもとの静けさはなく、龍は落ち着いて昼寝もできなくなってしまいました。
ある晩のことです。
龍は、浄土寺山のふもとの憂茶羅堂という寺の和尚さんを訪ねて言いました。
「のう、和尚さん。こう心の中が騒がしゅうなっては、わしも住みにくうなった。景色の良い尾道を離れとうはないが、仕方ない。明日天に帰ることにした」
龍は、和尚さんを通して人々に別れを告げたのです。
あくる朝早く、龍は長年住みなれた蛇が池になごり
をおしみながら、浄土寺山に登りました。裏山の「蛇が池」に、胴体をこする音がガラガラと響きます。
浄土寺山の項上に登った龍は、しばらく尾道の景色を見わたしていましたが、やがて山を下りました。
憂茶羅堂の庭をよぎると、すぐ海に出ます。そのまま、ザブンと尾道水道にとびこんだ龍は、ゆう然と松永湾を一周し、瀬戸内海を泳ぎ回ります。そして、尾道と四国のなかほどにある百貫島に上がると、この世のものとは思えぬ勇壮な姿で、雲を呼びました。
龍は、たなびく雲に包まれ、金の鱗を呑太陽にキラキラ輝かせながら、
朝日夕日に輝き、満潮の波に洗い清められ、漁に出る船は、必ず豊漁と安全を祈って立ち寄りました。
やがて曇茶羅堂は、龍が通って海に入ったということから「海龍寺」と名を改めました。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」
(2002年5月刊)より転載
尾道のお寺さんの多くに六地蔵があります。
空のかなたへ昇ってゆきました。
それからというもの、尾道の人たちは日照りが続いても、雨を降らせてもらうことができません。
そこで人々は相談して、龍がとびこんだ海の沖に石垣を築いて、その上に「龍王社」という祠を建て、龍王さまをおまつりしました。
それからは、日照りが統くと遠くの村や島から、この龍王社に鉦(しょう)や太鼓をたたいて、にぎやかな雨乞いの行列が訪れるようになりました。この雨乞いの行列は昭和の中ごろまで続いていたということです。
海にポツンと浮かんだように見える小さな嗣は、