善勝寺(真言宗)
尾道市長江一丁目  標高:17.9m
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 四国八十八ヶ所御砂踏霊場
 善勝寺の門をくぐると、右手に整然と積みあげられた四国霊場八十八ヵ所巡りの石仏が並んでいる。
大西屋一統の墓

 木梨元恒が没す十二年前の天正十年(1582)本能寺の変があり、信長から秀吉に天下治平のバトンは受けつがれ、一方中国地方においては尼子氏を滅ぼした毛利元就が中国十州の大守とし仰がれるにいたり、百余年にわたった戦国の世もようやく平和の風が吹きはじめた。

 この結果、かつて山名氏の恩顧をうけた商人は次第に尾道を去り、代って台頭したのが毛利氏の息のかかったものたちで、その代表的な豪商が渋谷氏(大西屋)小川氏(笠岡屋)葛西氏(泉屋)の三家であり、
毛利軍渡海のための普請奉行の重職にあたったほか、慶長五年(1600)の関が原の役にも毛利軍の諭送部隊として船団を用意するなど、尾道において“海の重職”であったことがうかがえる。

 相次つぐ戦乱と変幻きわまりない時勢の移りかわりに楫を取り損じ、暁の星のように次第に消えていった豪商のなかにあって渋谷の名は残り、尾道を十八才にして離れ、大日本ピールの重役をしておられた。第十六代当主渋谷謹次氏は十年前、帰尾され、久保二丁目八幡大門に悠々自適の余生をおくられ、
いずれも代官職をあずけられたうえ、とくに大西屋は沼隈郡五ヵ村で463石を扶持せられ、関船役儀用どして七端帆の船を仰付けられるなど別格の扱いをうけ、この大西屋一統の墓が杉原華のちょうど反対位置にあたる東南下側斜面にある。
 渋谷家の先祖は源義朝の臣で、
義朝が尾張国で長田忠政らに殺されたとき、敵の囲いを単騎で駈け抜け主君の横死をゆかりの人々に報せた渋谷金王丸と伝えられ、その七代目の与右衛門から尾道に移り住んだ。
 与右衛門は秀吉の文禄。慶長の役(1592~1598)にさいしては








     椿の花言葉
       私の運命
         あなたの手に
 豪商が渋谷氏(大西屋)一統の墓か

渋谷家の先祖は源義朝の臣で、義朝が尾張国で長田忠政らに殺されたとき、敵の囲いを単騎で駈け抜け主君の横死をゆかりの人々に報せた渋谷金王丸と伝えられ、その七代目の与右衛門から尾道に移り住んだ。
 与右衛門は秀吉の文禄。慶長の役(1592~1598)にさいしては毛利軍渡海のための普請奉行の重職にあたったほか、慶長五年(1600)の関が原の役にも毛利軍の諭送部隊として船団を用意するなど、尾道において“海の重職”であったことがうかがえる。
今も金王丸着用と伝えられる鐙の大袖二枚を蔵しておられる。
 地輪が少し長めの五輪墓五基を石卒塔婆がはさむようにたてり、供養塔など五十数基におよぶ墓標群は営々と築かれた壁商の跡をとどめ、耳を澄ますと尾道経済史の証左が聞きとれるような錯覚をおぼえる。
 火輪の一角が欠けているこの五輪墓は木ノ庄町木梨、鷲尾山城を拠点に、代々はかない運命の渦潮にもてあそばれた城主杉原元恒の墓。元恒は、永禄三~四年(1560~1561)の頃には毛利元就に従っているものの、備南の強豪としてその勢力は元就をもはばからせるものがあった。
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