天寧寺 → 信行寺へ
距離:255m 標高 出発:16.2m 到着:25.0m 最高点:25.0m 最低点:8.6m
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うです。
 町内全体を海に見立て、本物そっくりに作ったタコや大小の魚、模型の船などを参道の上につるしたことがありました。
 参道入口の大きな海亀に迎えられ、参拝者は龍宮の乙姫や浦島太郎になった気分で、鯛やヒラメがヒラヒラと舞い踊っている下を楽しくお参りしたものです。
 模型船の下を通っていると、頭の上にしずくがニ、三滴降りかかり、びっくりして見上げると、船から人形が小水をしている仕掛けもありました。
 この海中と見立てての発想は、いかにも港町らしいとの評判でした。
 また、製粉業者、かまぼこ店、古物商、豆腐屋、昆布商もそれぞれ店の商品を使って「一富士、二鷹、三茄子」とか「将軍の鷹狩り」などたくさんの作り物を飾って競いました。テーマは毎年変わっていたようです。
 この祭礼には変わった風習がありました。夜になると「尻つめり」といって、参拝者のお尻をつめって回るという風習です。
 「今日の晩は尻つめり」といいながら参拝者たちが、たがいにはやしたててお尻をつめって回ります。女の人や子供たちはつめられても痛くないようにと、着物の下に小さな座布団や紙などを
 また、町内の商家では商売用の品物を使って作り物を作り、店先に飾りました。
 第一次世界大戦中の作り物のテーマに「鷹づくし」というのがありました。
 ブリキ金物製造業音はブリキの切れ瑞やバケツ、ひしゃくなどを使って、見事な大鷹を作り、木札の
説明文に「日本の武力(ブリキ)に、ドイツ負け鷹(たか)」と書きました。
 衣類の店では、酒を飲んで千鳥足の大石内蔵助の人形にはでな着物を着せ
 「赤穂浪士よ、仇討ちは、ま鷹(だか)」と書きました。








当てていました。狭い幸の前は明け方近くまでたいへんにぎわっていました。
 この幸の前の祭礼はむかしから有名で、遠方から船で大勢の参拝者がやってきていました。狭い参道は身助きもできないほどでした。列がすすまないので後の者が
「早く歩け、早く歩け」
と前の者のお尻を押したのが、この「尻つめりのはじまりとのことです。
 この風習は昭和十五、六年ごろまでは続いていましたが、戦時中、建物強制疎開のため、半数近くの氏子が移転したため、祭礼ができなくなりました。
そして、塞之神神社も疎開で艮神社境内に移されました。現在、幸の前国道ぞいに「幸神神社」と彫った石碑が建っていて、むかしの繁栄のあとを物語っています。
 尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」
(2002年5月刊)より転載








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