行欣は一人残り、慶長八年、信行庵を尾道の土堂町へ移しましした。
山波の曲がり角は、あまりにも景色が美しく、魔の曲がり角といわれていました。そこには、尾道の町並みと、夕日に染まる尾道水道が一望に見渡せる岩がありました。
この世をはかなみ、この岩に立つと、対岸からえも知れぬ美しい調べが聞こえて、海にさそい込まれていたそうです。
美しい調べが、大むかしの別寺念ムの声であったかどうか、知るよしもありませんが、たくさんの人が、悲しみ苦しみながらも来世を信じてこの岩に立ち、身を投げこということです。
いつのころからか、こ
平安末期に念仏を唱える宗教が庶民にも広まり、庶民の間にも連帯感が生まれたためか、貴族達は年貢の取り立てに苦労するようになったようです。そこで登場するのが武士です。取り立てる手段は武士にまかせ、決められた年貢を武士が貴族に納めるようになったようです。
このころから、庶民達はまとまれば自分達の要求が通ることもあると、気がついてきたのでしょうか。
の岩を「身投げ石」と呼ぶようになりました。
今では尾道大橋ができ、道路も広くなって、石はわからなくなっています。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載