金宝山 浄智寺(臨済宗円覚寺派)
鎌倉市山ノ内1402 標高 39.1m
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 北条時頼の子(三男)宗政の死後、その夫人が1281年に建立した。開基は、夫人や一族のはからいで亡父宗政とその子師時(第十代執権)となっている。

 開山については複雑で、日本僧の南海宏海が招かれたが、大任だとして辞退、師である宋僧の大休正念を購じ、入仏供養を行い、亡くなっていた宋僧で高名の兀庵普寧(ごつあんふねい)を開山とした。

 1356年の火災で創建時の伽藍は消失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入った。
 また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情がある。
 北条宗政は、1281年、鎌倉が弘安の役(2度目の元軍来襲)の勝利に沸く中で宗政は出家して道明(どうみょう)と号したが、同日に死去した。享年29歳。
 おそらく甘露の井から流れ当たと思われる小さい池。この池にかかった石橋を渡ると浄智寺の総門があります。
甘露の井(かんろのい)

 井戸は総門の手前にある。井戸にはふたがしてあって中の様子はわからない。以前寺の左脇を通る道路の上の方を工事した際、甘露井の水脈を痛めてしまったので、それ以来井戸の水は出が悪くなって、飲めなくなってしまったそうです。
 「甘露」とは、古代インドの甘い飲み物。苦悩を除き,長寿を保ち,死者をも復活させるという。のち仏教で天人の飲み物とされ,仏の教えのたとえともなる。
 浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼(ときより)の三男宗政(むれまさ)とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州
宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。








 1323年(元亨3年)の北条貞時(ほうじょうさだとき)十三回忌のときに参加した僧の数が、224人と建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)・寿福寺(じゅふくじ)についで第4位となっており、僧侶以外も含めると浄智寺の総人数は、500人に達したと思われます。
 また、このころ堂塔も整い塔頭(たっちゅう)も11を数え、名実ともに鎌倉五山の第4位の寺として栄えました。
 寺宝の鎌倉時代の地蔵菩薩像(国重文)や建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)が書いた「西来庵(せいらいあん)修造勧進かんじん)状」(国重文)、などは
鎌倉国宝館に預けられています。
 無学祖元の書といわれる「賓(宝)所在近(ほうしょざいきん)」の額を掲げた総門をへて、林の中の参道を進むと石段があり、その上に山門があります。山門は、上に鐘楼があるめずらしいもので1679年(延宝7年)の銅鐘がかかっています。山門をくぐり進む







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