三段の滝(放水路)
  標高:35~55m
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 かつてここに料亭があり、賑わっていました。いまは公園になっています。







⇐旧三段の滝の水路。壁面が玉石の石垣で造られています。
 かって盛んに行なわれていた相模川名物の鮎漁も、河水統制事業によって相模湖が誕生すると共に、水量がめっきりと減ってしまって、今では遠い昔の物語となってしまいました。
 古老の語り伝えによれば、明治から大正年間、さらに昭和の初め頃までは、毎年四月から五月頃にかけて、下流から上流に向かつて川底を溯る鮎の大群は、おびただしい数に上ったということです。
 この近辺では、鮎とうなぎの漁場として、大変に有名でした。現在、県立公園になっている三工区から川坂までの間であったということでした。そのために蝕が溯る頃になると、
相模川には、連日のように鮎やうなぎを捕る漁師たちが押し寄せて、大変な盛況をみせたということです。
 漁師たちもまた、一日中、相模川の水の中に入って鮎釣りやうなぎ捕りを行なっていました。翌朝、漁師たちはまだ暗いうちに起きて、前日に捕った鮎やうなぎをかごに背負い、当時 横浜水道の水道道をたどって、橋本や八王子あたりの問屋に売りに出かけたものでした。また、一部の人たちは魚をかついで、峰の薬師を越えて浅川まで行き、東京方面に行く一番列車に間に合わせたというこです。(「ふるさとの民話と伝承」より)




     「鮎供養の碑」

 麒麟麦酒株式会社では、毎年の社員恒例行事として行われていたようです。
                  裏側に ⇨ 
 『鮎は節分の夜遡上を始め、稲の花咲く頃瀬を下り産卵して生を終わる。年魚と呼ばれる所以である。 生を完うすることなく人の食膳に上る鮎の霊を慰めんために麒麟麦酒社中相はかり浄罪を募りてこの地に供養の碑を建立する』
 昭和出六年夏日 三宅勇 撰文 浮乗水郷 書
 かって盛んに行なわれていた相模川名物の鮎漁も、河水統制事業によって相模湖が誕生すると共に、水量がめっきりと減ってしまって、今では遠い昔の物語となってしまいました。
 古老の語り伝えによれば、明治から大正年間、さらに昭和の初め頃までは、毎年四月から五月頃にかけて、下流から上流に向かつて川底を溯る站の大群は、おびただしい数に上ったということです。
 この近辺では、鮎とうなぎの漁場として、大変に有名だったのです。
 鮎は、大変に香りが良いことから「香魚」とも呼ばれていました。特に鮎の「はらわた」を塩漬けにした「ウルカ」は、腹痛や口臭止めの妙薬として大変に珍重されたものでした。
 しかし、上流にダムが出来、鮎が少なくなってしまいました。今となっては、鮎漁が盛んだった風景も遠い昔の一編の美しい風物詩となってしまい、かつての雄大な相模川の流れも、そこで行われていた貼漁も見られなくなってしまい、今ではそうしたことを知る人さえも少なくなってしまいました。




 三段の滝に隣接する三段の滝広場には、昭和50年代まで川魚旅館「梅よし」があり、この頃は夏の風物詩のひとつとして近くの相模川でとれた「鮎の天ぷら料理」を中心に楽しむ、梅よしの「遊舟会」が頻繁に催されていました。
《さお塚》  
 この碑には、表面に「さお塚」、そして裏面に「昭和三十七年八月建立」と刻 まれているのみです。おそらく、建立日が鮎供養の碑と同時期であることから、 鮎釣りに永年使われた釣り竿の供養のために建てられたものと思われます。なお、 建立者は不明です。


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