行時山 光則寺(日蓮宗)
標高 20.0m
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1.6mの高さの床がありその両端には水はけのみぞがついています。これには次のような話が伝わっています。
 九州の平家方の武士の大橋太郎通貞(みちさだ)が、平家滅亡のとき捕えられ、この土牢に12年間閉じ込められていたということです。そのとき、ただ一人の子、一妙麿(いちみょうまろ)が12歳の身で父の安否を気づかい九州からはるばる鎌倉にきて、どうぞ父に会わせてくださるようにと鶴岡八幡宮にお祈りをしました。頼朝(よりとも)はそれを聞いて、この一妙麿の親を思う気持ちに胸を打たれ、
通貞を死刑にするつもりだったのを許したということです。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」


    土牢御書の石碑

 日蓮が、幽閉されている日朗に書いた手紙の碑が建てられている。
 佐渡流罪となった日蓮は、弟子の日朗の身を案じて手紙を書いたといいます。



「今夜の寒きに付けても、牢のうちありさま思ひやられて痛はしくこそ候へ……」(『日蓮聖人遺文』)。
 日蓮出身の地、房州は
外洋と湾に面し、災害の少ない土地と、温暖な住みよい風土に恵まれているため、じめつかず、からっとしていて、保守的だが享楽的で活動的であり、人のよいのが特徴。 そのためか日蓮は、積極性と理想主義を体現した人であった。
 日蓮は、争いを好まない土地の出身であったが、その説法は「法華経こそ、仏の真の教えである」と理想主義を掲げ、他の宗派を激しく批判したので、他宗を信じる民衆からの反発が強く、石や瓦を投げつけられてた。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、信者を増やした。
 境内奥の墓地上にある。文永八年(1271)龍ノロ法難で日蓮は斬首をまぬがれ、佐渡へ流されるまで、他の僧俗とこの土牢に幽閉されたという。
 土牢から見る景色。
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