行時山 光則寺(日蓮宗)
標高 20.0m
鎌倉ウォーキング地図へ
 朱ぬりの山門をくぐると、正面に日蓮(にちれん)の字を刻んだ「立正安国論御勘由来(りっしょうあんこくろんごかんゆらい)」の大きな石碑が建ち、隣にその説明の石碑があります。
 その奥の梅林を進むと深い傾斜の屋根をもった本堂があります。
 この本堂は江戸時代の1650年(慶安3年)に建てたものと伝えられ、修理を加えて今まで続いているものです。
 本堂の正面に、日蓮が弟子の日朗(にちろう)をたたえた「師孝(しこう)第一」の額がかかっています。
公開されませんが、本堂の中には日蓮・日朗や日朗と共に牢に入れられた7人の像などがまつられています。
 境内は四季花が絶えない美しい庭ですが、特に、本堂の右前には樹齢約200年、高さ7mほどのカイドウがあり、4月上旬に咲くので有名です。本堂に向かって左前に、日蓮宗の信者でもあった宮沢賢治(みやざわけんじ)の『雨ニモマケズ…』の詩碑があり、池の奥は竹林が裏山へと続いています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」





 宮沢賢治(法華経の信者)

 「雨ニモマケズ------------」
 宮沢賢治は神田駿河台の旅館「八幡館」泊っているとき高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書いた。最期の別れのつもりで父親に電話をかけると、父の政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻って病臥生活となる。そのなか手帳に『雨ニモマケズ』を書いた。
 本堂に続く庫裏の右側にある石段を、右側に光則の墓などを見て進むと、山の中腹のうす暗い岩かげに、約5m四方のやぐらがあります。これが「日朗上人土の牢」です。日朗は13歳のとき日蓮の弟子となり、いつもそばに仕えていました。日蓮が伊豆に流されるときは、同行を願ったが許されず、
「龍ノロの法難(ほうなん)」のときにはこの牢に押しこめられたといわれます。処刑をまぬがれた日蓮は佐渡に流されることになった前日、牢の中の日朗に依知(えち)(今の厚木市)から手紙を届けました。これが『土(つち)の牢御書(ろうごしょ)』といわれています。左側に説明の石碑(せきひ)が立っています。
 「多くの人は法華経(ほっけきょう)を口でばかり唱えているが、りっぱなお経を心から信ずる人はない。たとえ心から信仰してもお経の教えを実行する人がない。だが、日朗よ。あなた 公開されませんが、光則寺本堂裏の山腹にもう一つ土牢があります。これは、もと奈良時代ごろの横穴の墓で奥に









甘縄神明宮へ   長谷寺へ
1頁へ  2頁へ  3頁へ