二十歳で出家した「空海」は、四国の室戸岬の近くの洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をしていた時、「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験してからです。
虚空蔵菩薩のご利益の魅力は尽きることのない福徳です、最大の魅力は記憶力で、なにしろ、比叡山(ひえいざん)に修行に入る前の日蓮が、「我を日本一の智者となしたまえ」と虚空蔵菩薩に拝んだそうです。
その記憶力は、一度読んだお経は絶対忘れないのだそうです。
その強力な記憶力は「求聞持法」によって得ることができます。
また、虚空蔵菩薩は星辰信仰にもつながり、虚空蔵求聞持法を修して成就する時、天空から星が降るからで、星降りの地に虚空蔵菩薩を祀るのです。
修行時代の空海(弘法大師)の求聞持法を修して星が星降った体験談を、二十四歳で書いたといわれる『三教(さんごう)指帰』に「土州の室戸崎で求聞持法を念じていると谷が響き、明星が天降った」と書いています。
虚空蔵菩薩は、地蔵菩薩と対として考えられます。地の蔵に対する天の蔵で、地蔵と同じように功徳が大きいのです。
まず、白い絹布に満月を描き、その中に宝蓮に半跏した虚空贈菩薩像を金泥で描いて清浄な場所に安置し、供物を供えます。それから目を閉じて陀羅尼を唱える。その時はただ唱えるのではなく、菩薩の心の上に満月があり、唱える真言の字がその月の中に現れて、すべてが金色に輝き、やがてそれは月から
飛び出して陀羅尼を唱える者の頭上に降り注ぐと、口から出て再び菩薩の許に帰って行く、と想念するのです。
とくに、日蝕の時に疎(チーズ)を用意して陀羅尼を唱えるなら、疎は神薬となり、これを食べると一度読んだお経は絶対忘れなくなるのだそうです。
対面の墓地との間、クルマを通すた、切り下げられていますが、大正十二年の震災のとき、出来たてのホヤホヤで不安定だった崖が、どっと崩れ落ち、折悪しく通行していた曲馬団の荷馬車一台を成就院の下のところで押しつぶしてしまいました。馬車にはサーカスの動物たちも数匹積まれていましたが、御者や馬諸共みんなやられてしまったといいます。
道路で隔たった対面の墓地に行くため、石段を下り、切り下げられた道路を渡り、登っていくと、「和田義信神社」と刻まれた石碑と、その一族と思われるお墓があります。
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和田義盛は、三浦一門として源頼朝の平家打倒に協力した。その後、1213年2代執権北条義時との間に確執が生じると、北条義時の挑発に乗る形で北条氏を打つために挙兵します。和田合戦で同族の三浦義村に裏切られて敗北し、鎌倉由比ヶ浜で最後を遂げました。
建保元年(1213)五月の和田義盛の乱で、義秀は父親とともに奮戦する。しかし、敗北してしまう。義秀は五百騎の軍勢を連れて「安房国へと逃走した」と、『吾妻鏡』にある。このとき義秀は三十八歳だったといわれている。その後、この稀代の豪傑の行方はわかっていない。没年も不明のままである。ただ、『和田系図』によると、義秀が安房国に逃れたのは三十五歳で、その後、高麗国へと逃れたと伝えている。
「和田義信神社」と刻まれています。