自負していたのかもしれない。しかし、平家に勝利したのはあくまで頼朝の総合的な力がその背景にあった。
腰越ノ浦で弁慶に書かせた「腰越状」が、そんな状況を義経が正確に理解していなかったことを語っている。
「腰越状」では、自分の功績と頼朝への忠誠心を連綿と訴えるのみだった。頼朝に忠誠を尽くすなら、勝手に宮廷から勧誘を受けるはずもなかったし、戦いの功績を声高に叫ぶはずもなかったのでしょう。自分の置かれた立場を把握、分析できなかったのが義経だったと言えるのではないのでしょうか。
義経が、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた場面。
結果として、平清盛の温情に助けられた源頼朝は、弟の義経、範頼を見誤り自らの手で葬った。当時の武士は、いまの暴力団よりも怖い存在のようですから、組織の維持にはやむを得なかったのでしょうか?
義経は頼朝という大きな手のひらの上で、奇跡的な大勝利を収めた。頼朝の戦略、頼朝の武家の棟梁という権威、頼朝の下に集まった御家人たちの力があればこそ、義経は将軍としての才能を発揮できた。
その現実を義経は分析できなかったのだろうか。平家との戦いの勝利は、自分の才能のおかげだと
本堂右には弁慶が腰越状の下書きをしたときに水をくんだという硯の池があり、右裏手には義経が手を洗ったという井戸、本堂左には弁慶の手玉石・腰掛石と伝えられる石や「源義経公慰霊碑」が立っています。
硯の池には、次のような話が伝えられています。
弁慶が池の水を汲み上げて、頼朝の怒りが解けることを願いつつ心静に墨をすっていると、池のほとりの草むらでコオロギがしきりに鳴いていました。
そこで、弁慶が「やめよ。」と叫ぶとコオロギはぴたりと鳴き止み、境内は静まりました。
義経公手洗いの井戸
今でもこの境内のコオロギは決して鳴かないということです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)