八阪神社
尾道市久保二丁目 標高:2.1m
【民話 かんざし燈籠】
文化文政ころ、今の新開は花町として栄え、芝居小屋の客引の声や行き交う人々で、とてもにぎわっておりました。
ある芝居小屋の片すみに、いつもじっとうつむいて立っている娘がおりました。かすりの着物に赤い前だれをかけたその娘は、芝居小屋のお茶子なのですが、たいへんおとなしいので、お客をとることもできず、他のお茶子たちの働きぶりをじっと見ているばかりです。
「あんたも早ようお客をとらにゃいけんよ」
そのとき、
「席、あいてるかのう」
突然声をかけられて娘が顔を上げると目のの前に一人の若者が立っていました。娘は若者を大切にもてなし、心を込めて世話をしました。言葉少なで物静かなもてなしは、若者の心を芝居よりも娘の方に向けてしまったのです。
その日以来、若者は毎日芝居小屋に通いました。おとなしい娘も、日が重なるにつれて若者を待つようになっていました。
せまい町のこと、若者と娘の仲はすぐ町中に広まり、若者の両親の耳にも入りました。
か
ん
ざ
し
燈
籠
この泊犬は、前足を玉にかけており、この形は「尾道型」とも呼ばれているようです。高さ約1.5m、全長約1.3mはあるこの泊犬は、尾道で一番大きい泊犬とされており、一つの石から彫られています。
「かみのらぼ 1号」(尾道市立大学刊)より
と仲間のお茶子に言われても、コクンとうなずくだけで、なかなかお客をとることができません。
お茶子というのは、芝居を見に来たお客を座席に案内し、座布団を出し、お茶、お菓子、お酒、弁当までも引きうけて世話をします。そのお礼にお客はお茶子に心付けとしていくらかのお金を渡すのですが、金額
は決まっておらず、お茶子のもらえるお金はお客の気持ち次第ということなのです。お金を少しでも多くかせぎたいお茶子は、一人でもたくさんのお客の世話をしようと、ときにはお客のうばいあいもありました。
この日も芝居小屋のすみで、娘はじっと立っていました。
「おまえ、お茶子と仲良うしておるといううわさじゃが立場を考えにゃいけん。なんというても、うちは浜問屋じゃけんのう」
きびしい口調の父親に、息子はとりすがって言いました。
「分限者と貧しい者とに、どれだけのちがいがあるん
じや。あの娘は心のやさしいよく気のつく娘じゃ。父さん、いつぺん会うてくれればあの娘の良さがわかる」
「だめじゃ。お茶子ふぜいと」
こんな親子の言い争いがどれほど続いたでしょうか。
それほどまでに言うのなら一度会ってみようと、根まけした浜問屋の主人は娘に会うことにしました。
おどろいたのは娘の親です。
「なんでこうな貧しい家の娘を……」
と言いながらも、できるだけのことをしてやりました。娘は、親のせいいっばいのしたくで着かざり、
浜問屋ののれんをくぐったのです。まちかまえていた浜問屋の主人は、娘を上から下までジロッと見るなり、
「フンフン。あんたがお茶子さんじゃな。べっぴんさんじゃが、今どきの娘さんがかんざし一つ持たんということはどういうことじゃろう」と言いました。それを聞いた娘は、あとの言葉が耳に入らず、どうしてよいかわからなくなりました。
「着物からぞうりまでそろえてもろうて、かんざしまでも買わにゃいけん言われても、うちにゃ、そんなわがままは言えん」
娘は、かんざしをうらみながら、近くの井戸に
たのです。それからというもの、娘のゆうれいはぱったり出なくなりました。
今もかんざし燈龍は、ありし日のお茶子娘のように、ひっそりと立っております。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載
身を投げてしまったのです。
その日から、明神さんの大きないちょうの木の下に、娘のゆうれいが出るようになりました
「かんざしを下さい。かんざしを下さい」
と言うゆうれいのか細い声は、人々の心をゆり動かしました。
「かわいそうにのう。あの娘さんの供養じゃと思うて、かんざしの形の燈龍を建ててやるのはどうじゃろう」
誰言うともなく出た話は、すぐにまとまりました。町の人たちは、高さ四メートルほどもあるかんざしの形の石燈龍を建て、かわいそうな娘の霊をなぐさめ
左の写真の塀の左側は、むかしは海だったそうです。この神社は海のほとりにあったのです。
陣幕久五郎の句碑
明神(八阪神社)境内の拝殿には簪灯範のほか東側に角力極意「受けながら風の押す手を柳かな」陳幕-と細く彫られた句碑がたっている。こちらは陣幕の嗣子室谷喜一が昭和二年にたてたもの。
さらに歩をすすめると、左手に地をはうように陰陽
石がふせてある。双方あわせ延長約1mばかりであろうか、囲い柱に昭和二年と刻まれてているが、これよりかなりさかのぼり誰かによって埋めこまれたものであろう。噂には聞いていたものの、あまりにリアルに描写されているのには少々驚いた好事にとっては一見に価する代物。