海福寺(時宗)
尾道市西土堂町  標高:15.8m
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 どろぼう一味の首領格と思われる者に、惣兵衛、亀蔵、利助というのがいました。この三人はどろぼうといっても、金持ちからお金や品物をうばい、貧しい人たちに恵んでいたのです。
ところがとうとうこの三人が捕えられました。
 三人は文政十一年神無月(旧暦十月)の二十六日、木枯らしのふく寒い日に、処刑されることになりました。
 当時、刑場は木原村の六本松にありました。御所の奉行所を出た三人は、ともに後手に縄でしばられ馬に乗せられて刑場に向かいました。沿道にはやじ馬が集まり、
 やがて糸崎八幡宮の森が見えてきました。その後の山あいに六本松の刑場があります。刑場といっても六本の古い松のある、ちよっとした広場で、枯れ草にうもれた一基の地蔵さまと、小さな燈寵があるだけです。この刑場の竹矢来の中で、三人は処刑されました。
 それから数力月後、海福寺二十一代目の和尚堪応は、不思議な夢を見ました。処刑された三人が夢枕に立ち、
「われわれ三人の供養をしてくれ、そうしたら首から上の病を治してやろう」と言うのです。
治してやろう」と言うのです。



治してやろう」と言うのです。



 翌日堪応和尚は、奉行所に願い出て、
 昔から、たとえ悪人でも、恩の受けた人を供養するという風習がありますね。義賊に恩義を受けた人が建てたのでしょうか。
珍しそうに見送っていましたが、中には涙をためて手を合わせる貧しい人たちもいました。
 頭から囚人笠を深くかぶり、浅葱色の一重を着せられ、荒縄で帯をしめた三人は、無言で通りすぎます。ところが三番目の囚人は大がらな男で、肩を怒らせ、何度も後を振り向いていました。
見送る人々の中に心にかかる人の顔をさがしていたのでしよう。
 栗原川の巌通橋を越え、吉和村鳴滝山をながめながら、福地を通り木原へと向かいます。瀬戸内海が広く開けた美しい景色を、三人の囚人はどのような気持ちでながめたのでしようか。








 六道(地蔵・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)を守護し、さまざまに姿を変えて人々を救うという。
三人の首を寺に運ばせ、さっそく法名をつけてまつりました。
 これを聞いた人々は、一文、二文とお金を出し合って、三人のために石 碑を建て、祠をつくりました。
 今でも海福寺の墓所の入口に「三つ首さま」と呼ばれる祠があります。
 赤い幕がつるされ、中に数基の地蔵さまがまつってあります。首だけの地蔵さまもいくつか並び、中央の石碑には向かって右から「功阿良勤信士」「眼阿通天信士」「「界阿精進信士」と三つの法名が刻まれていますが、今となっては、どれが惣兵衛、亀蔵、利助のものかわかりません。
 今でも首から上の病には、ご利益があると人々は信じ続けて、「三つ首さま」の祠にお参りする人々が大勢いるということです。

尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載




 「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。
 同じような伝説に、鼠小僧の義賊伝説がある。
 鼠小僧次郎吉は、江戸後期に暗躍した盗賊で、のちに義賊として有名になった。本当に義賊であったかどうかの真偽はともかくとして、歌舞伎、講談、小説、映画やテレビの時代劇など、今日でも人々に親しまれている。
 江戸の芝居小屋の木戸番の長男として生まれ、
 しかし、鼠小僧は、江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。
 現在の定説は、「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」となっている。
建具職人(とび職ともいわれる)となったが、ばくちで身をもち崩して無宿人となり、やがて大名・武家屋敷を専門に忍び込んで盗みを働くようになった。
 人を傷つけることなく現金だけを巧妙に盗み去るという手口から、のちに大名屋敷から盗んだ千両箱の小判を庶民の長屋にそっと配った、という義賊伝説
も生まれた。
 一度捕まって刺青(いれずみ)、中追放の刑を受けたあとも盗みをつづけ、天保三年(1832)についに捕縛され、同年八月十八日に裸馬に乗せられて市中引き回しのあと、鈴ヶ森刑場(現・東京都品川区)で磔(はりつけ)獄門(串刺刑、さらし首)となった。






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