太平洋戦争が終わって
相武台公民館 2Fコミユニティ室にて
戦争終了後(昭和20年8月15日以降)
1.日本で
・雇い主の高座海軍工廠消滅。
・少年工は日本国籍を失い、外国人に。
・各地に派遣されていた少年工が高座海軍工廠に戻って来た。寮は8000人になった。
・失業。暇がありすぎ退屈。
・食料:工廠の寮に残っていた米は10月の始めまで。食塩は9月半ばまで。
・「高座台湾省民自治会」を結成(舎監だった石川昭雄氏の助言で)。代表が外務省、神奈川県知事などを訪れ生活(主に主食)・帰国(船)等について交渉した。
・神奈川県が食料(米・野菜など)支給、工廠のトラックで取りに行った。
・工廠に残っていたモーターオイルを販売して、肉、魚、バターなどを購入した。
・外国人扱いで列車乗車制限なし。北海道などを旅行した人もいた。
・帰国 昭和21(1946)年1~2月
2.台湾で
・社会は混乱し、失業者、生活困窮者が多かった。
・日本の支配下から中華民国の台湾になった。
・台湾少年工たちは日本語しか話せず、中国語、英語の勉強をした。
・国民党独裁。1947年:228事件
・戒厳令 1947~1987年(約40年間)
・戦時中、敵国(日本)の戦争に協力したと非難された。
・1988年 「台湾高座会」結成(善徳寺の「太平洋戦争 戦没台湾少年の慰霊碑」が契機)
・1992年 台湾高座会新化会の人たち大和市役所訪問。
・1993年 「台湾高座会留日50周年記念歓迎大会」1400人来日 大和市
・1997年 「台湾亭」(台湾高座会が建設)大和市に引渡し式
終戦後の少年工等は大和の宿舎だけはありましたが、ひどい食料難で、大豆数粒が汁に浮かんだのや、豚の餌と同じ豆粕だったこともあります。少年行たちは自治組織を作って県と交渉し、なんとかこの困難を乗り切ってひたすら帰国の船を待ちましたが、敗戦国日本にはまともな船のあるはずもなく、周吟朗さんが浦賀港から乗った帰国船は、なんと石炭運搬船でした。周さんが故郷の家帰り着いたのは昭和21年2月15日でした。成長しても日本を懐かしむ少年工等は台湾高座会を作り、時折の集会を楽しみ、節目の歳には大和市までやってきて当時を懐かしまれるということです。周吟朗さんも、何度も日本に来ておられます。
戦争 終了次は食料
左の紙面は終戦翌日の毎日新聞だが「一路食料増産へ」の見出しが躍る。爆弾での死を免れたと思ったら、今度は飢餓で死なねばならぬ。国民は一斉に食料増産へ走り出した。天皇がマッカーサー元帥に国の窮状を訴えられたのもその頃のことであった。
終戦後は寄宿舎で自治会組織を作り、神奈川県知事と交渉して食料などの支給を受けている。自治会は帰国を前提として出身地別に「大隊」を作り、帰国の船便を待った。下の写真はその自治会の仲間とのスナップで、右から2人目が周氏である。幾多の困難にもまれ一段とたくましくなった姿が写っている。
台北地区から配船が用意され、周氏の場合は昭和21年2月1日に石炭運搬船「永録丸(8千トン)」で浦賀港発、基降に着き、故郷の最寄駅までの無賃乗車券をもらって、懐かしい家に辿り着いたのは2月15日の早晩一時半だったという。
尊い青春を高座工廠に捧げ尽くしての帰郷であり、無類の親日の家であられる。こういう人々が八千数百人もいたという事実を、特に高座に住む人は忘れてはなるまい。
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少年工の給料の行方
当時の工廠で働いて得た給料が、ひとりひとりに手渡されていなかった、ということを訴えている手紙があります。
当時の給料は、普通の少年工で 円くらいでした。この手紙を読みますと、給料は3つに分けられていて、貯金・食費・各人に渡される小遣い、となっているようですが、貯金通帳が個人個人に渡されていない、というのです。
少年工は8千人以上も来ていたのですから、合計すれば相当の大金になりますね。
郵便局側では、通帳は一括して少年たちの寄宿舎に渡しているようでもあり、しれが終戦直後のごたごたのうちに、一部がなしくずしに引き出されているようでもあり、何とも不明確ですね。終戦をさかいにして、海軍から見捨てられた少年工たちは、自治会を作って神奈川県知事と交渉、苦しかった敗戦直後を生きぬいて、船の都合がつき次第、順に故郷の台湾に戻っていったのですが、預金通帳の問題は解決されないまま残ってしまったおうですね。海軍がなくなった後は、当然、日本という国が少年工の生活をみるべきなのですが、その責任を日本は十分に果たしていないようにも感じられますね。
とにかく問題を提起している一通の手紙です。終戦後70年以上が過ぎたのでうが、まだまだ細部に、いろいろな問題が残されているようです。