平安時代には、権力にほろぼされた人びとが、死後に怨霊となってたたるという事例が、数多く起こりました。そのたびに権力者は、彼らを神さまとして神社にまつりたたりをしずめたものです。
菅原道真をまつる天満宮や、平将門をまつる御首神社(みくびじんじゃ)などは、その代表的な例です。
このように、名のある人物が死後に神さまとなるパターンは、武士が歴史の主役となり、戦さが頻発した鎌倉時代(1185~1333年ごろ)以降増加の一途をたどります。
神さまの使いとされる動物を、「神使(しんし)」「みさきがみ」「つかわしめ」「眷属(けんぞく)」などと呼びます。たとえば学問の神・天神さまの神使は牛。だから天満宮に牛の像があるのです。
牛の石造
全長150cmほどあり ます。天満宮ゆかりの菅原道真公は丑年生まれで、丑年 に亡くなられたので置かれています。
御袖天満宮の「さすり牛」 案内板より
学問を極める道は牛歩の如く努力を積み重ねて成し遂げられるものです。
学問の神様、菅原道真公を祀る御袖天満宮の「牛像」も古来より触れることにより里人の願いがかなえられると伝えられています。
この臥牛は1808年、宇津戸屋重兵衛が寄進したが、なにゆえか三十九年後の1839年に石工喜右衛門の手になり再建されたもので、玉垣は筆塚の玉湊富之進が寄進したもの。
御袖天満宮の「天神さまと牛」 案内板より
天神さまと牛の歴史的な関係は古くより深いものがあります。
菅公は承和十二年(845)六月二十五日乙丑(きのとうし)の年にご生誕になり、延喜十三年(903)二月二十五日乙丑の日に薨去(こうきょ)されました。
寛平五年(893)癸丑(みずのとうし)九月、北山の宴の折、菅公を慕うが如しの仕草の子牛が現れ菅公はたいそう喜ばれ御館に連れ帰りお可愛りになりました。延喜元年(901)は菅公が大宰府にご左遷の時、賊に襲われ命が危うく見えたとき、白い牛が松原より現れ菅公を助けました。その牛は菅公が都でご愛育に
なった牛でした。
薨去の際、菅公の遺言に轜車(じしゃ)を「牛に乗せて人に引かせず牛の行くところに止めよ」とあり、その牛は、安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定められました。その時の牛の姿が臥牛であったと伝えられています。