相武台よもやま話 「陸軍士官学校」 :相武台歴史同好会
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1.自己紹介

 本日は歴史同好会の「相武台よもやま話」にご参加いただきありがとうございます。まず自己紹介ですが、私は、林といいます。歴史同好会に平成30年に加入し、足掛け5年になりますが、未だ十分な勉強が足りていません。
 私が相武台に移転しましたのは昭和56年3月で、約42年になります。我家は旧公民館出張所付近でした。当事の出張所は木造で、管理人が住んでいました。家の周辺は桑畑で、緑台小学校、グリーンパーク、つくしの幼稚園、遠くに小松会病院があり、それ以外はまだ閑散とした地域でした。

 永年サラリーマン生活で、相武台の歴史自体を知りませんでしたので、住居地の歴史を勉強し、知識を得る良い機会ととらえ、歴史同好会に入会いたしました。同好会の会長は、永年この地域の歴史を研究され、改めて造詣の深さを感じております。
今ではなんとなく相武台が見えてきた感じがします。
写真は昭和48年(1973年)緑台小学校開校時のもので、つくしの幼稚園(昭和49年開園)、グリーパーク(昭和53年入居)はありませんでした。
最近の世界情勢を眺(なが)めますと、ロシアによるウクライナ侵攻から6ヶ月たちました。ウクライナ紛争が大きな問題となっています。TV放送を見ていますと、戦車や車両に「Z」や「V」の文字が目立ちますが、これはウクライナの戦争機材の大半がロシア製で、敵・味方の区別がつきにくいことから、ロシア軍は目印として、にわかにこの文字をペンキで表示している訳です。

「余談ですが「Z」について」
・本来「Z」の印は、Zがアルファベットの最後の文字であることから「この戦いに敗れたら後がない」という決戦の士気高揚を目的に用います。
・明治38年(1905年)5月、時の海軍中将秋山真之(あきやまさねゆき)(司馬遼太郎:坂の上の雲)は日本海軍の名参謀といわれ、日露戦争でバルチック艦隊を対馬付近で発見した際、大本営に発信する文章を、飯田少佐と清河大尉が「敵艦見ユトノ警報に接シ、連合艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス」の草稿を秋山に出したが、その草稿文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を追記しました。この追記文章は、秋山の文章ではなく東京の気象官が、大本営を経て毎朝現地(戦地)に送信する文章でありました。そして、東郷平八郎連合艦隊司令長官のもと、連合艦隊旗艦「三笠」から、「皇国の荒廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」という意味をこめてZ旗を掲げました。
・ここから、一般的に「最後の奮闘を期する」という場合に「Z旗を掲(かか)げる」と表現するようになったのです。
・日本海海戦の大勝利後、日本海軍では、重要な海戦の際にはZ旗を掲げることが慣例化し、その後真珠湾攻撃、マリアナ沖海戦、レイテ湾海戦の際、奇襲部隊の空母「赤城」も必勝の旗印としてZ旗を掲げました。
・現在の国際信号旗の「Z」は「私は引船が欲しい」の意味だそうです。
・日産自動車のスポーツカー「フェアレディZ」は背水の陣で全社一丸となって開発販売することから名付けられました。
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