次
頁
へ
蘭学者、平賀源内(1728~79)は讃岐・志度村(現・香川県さぬき市志度町)の生まれで、植物学、科学、劇作など多くの分野で活躍した人物です。長崎で学んだ帰り、鞆の浦溝川家に立ち寄りました。その時、ここで陶土を発見し、オランダや中国の陶法を取り入れた源内焼の製法を伝えました。生存中に神
風来山人(ふうらいさんじん)(平賀源内)は『根南志具佐(ねなしぐさ)』(宝暦十三年=1763刊)のなかで、江戸の河豚事情をつぎのように述べている。
「だいたい昔は人間も生まじめで、毒というものは喰わぬものと心得、河豚を恐れる事、蛇蝎(だかつ)のようであったが、次第に人の心は放蕩になって行き、毒と知ってこれを食べるようになった。お上では、この風潮を何とかしようと河豚に当たって死んだ者を出した家は、断絶という決まりまで立てたが、、
としてまつることを生祠(せいし)といい、1764年溝川家がまつっていることから平賀源内生祠ということがわかります。(説明板より)
徹底されることはなく、河豚売りは大道を売り歩くし料理屋でも出すようになった」
時代が下るにつれて、河豚を食べる人が増えてきた様子がわかる。