昭和10年頃から、このあたりにナベトロ(小田急砂利軌道)があった。
・上磯部の相模川(三段の滝付近)で採取した砂利を現在の相武台前駅に運搬した砂利軌道
・運行期間 開始昭和10(1935)、11(1936)年終了 昭和16(1941)頃に終わりました。 昭和12(1937)年、陸軍士官学校が移転してきて軌道に一部がその敷地内になった。
・運行距離 約4.3 km、上磯部の相模川(三段の滝付近)現在の相武台前駅まで運行 、小田原急行鉄道(株)(現在の小田急電鉄(株))
⇐相模川方面(奥の山並みは大山や丹沢山塊です。)
・砂利 コンクリートの成分として使用された。コンクリート=砂利(骨材)+砂+セメント
相模川中流域の砂利は、粒の大きさ・硬さなどがコンクリートに最適だった。
・時代背景 大正12(1923)年に発生した関東大震災で東京・横浜・小田原などが甚大な災害を被った。特に被害を大きくしたのは、木造建築物がほとんどであったための火災だった。
その復興には「燃えない町造り」がモットーになり、コンクリート造り・煉瓦造りの建築物が増大した。このため、砂利の需要が急増した。
この時、利用されたのは都心に近い多摩川の砂利だった。そして、多摩川の砂利採取は昭和9(1934)年に、乱掘のため、全面採取禁止になった。
そこで、都心に比較的近い相模川の砂利採取が各所で盛んに行われるようになった。相模川の砂利は各所で採掘され、昭和39(1964)年、乱掘により全面禁止なるまで採掘され続けた。
この間、昭和15(1940)年に予定された東京オリンピック、戦後の復興、特に昭和39(1964)年の東京オリンピック、都心の高速道路の建設などに膨大な量の相模川の砂利が採掘され、使用された。
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かっての相模川には、夕日を浴びた白帆が、幾艘となく並び詩情をそそった。
また、上流からは筏が下り、厚木や平塚方面に、木材や石等を運んだもので厚木の地名は木材の集散地であったからだという。
このような、相模川も、一度洪水になると、時には堤防が欠壊、田畑を流し、民家に浸入した。
この洪水について、宗仲寺史に「安政6年(1859)7月25日の大洪水により去ルガ島(現、猿ケ島)村三十軒中、四軒を残し流失、新田宿村では床上二尺も浸水」と記されている。
明治40年には磯部の堤防が欠壊、田畑に土砂が流れ込み、はなはだしい損害を与えたという。
が、そんな面影をなくした相模川も新しい顔として年々生まれ変わりつつある。これからも市民の“いこいの場”として生きつづけてほしい。