と考え、悲しみと喜びが胸に満ちました。
人々は、法師がいっも念仏していたので助けられたのだと思いました。それから亀ヶ谷(かめがやつ)から仏師を招いて頬の焼け跡を修理させましたが、何回やっても直りませんでした。後に町局は比企ヶ谷(ひきがやつ)に岩蔵寺(がんぞうじ)を建て、この本尊をおまつりしました。この寺を「火印堂(かいんどう)」ともいったそうです。町局は出家して、73歳でこの本尊に手を合わせて念仏しながら亡くなったということです。また万才法師は大磯に庵(いおり)を作って住み、ますます一心に念仏を唱え、
「南無阿弥陀仏」の六字を書いて生活し、極楽へ往生を遂げたということです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗地蔵が収められている。
時宗の宗祖・一遍
一遍上人は「ものを捨てよ」という次元を超えて、「知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下(きせんこうげ)の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また、諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて……」と。
光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。その本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗(しおなめ)地蔵が収められている。この塩嘗地蔵、なぜそう呼ばれるのか。
ひとつは、六浦の塩売りが、初穂の祝いのために、「地蔵に備えた塩をなめたから」という説や、塩売り
の供えた塩が「いつのまにかなくなっている」というので、そう名付けられたとも言われている。いずれにせよ、鎌倉には地蔵信仰が多く存在する。
鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したりしたいとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が触ると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのだった。この地蔵信仰の特徴はそれぞれに専門化された性格が与えられていたことでもある。
奈良時代に中国から伝えられた地械信仰。鎌倉にその信仰が伝わると、名高い露が競って優れた地蔵を製作するようになり、庶民に浸透していった。
鎌倉時代は、地蔵信仰が開花した時代ともいわれている。
安産眼病長寿などなど、現実に即した願いを書く地蔵が受け持ち庶民の心を癒す役割を担いよの反対に一役買ったのだった。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 実業之日本社 より)
塩嘗(しおなめ)地蔵