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(応永22年)、院宣(いんぜん)によって「院」と改められました。院宣とは、上皇や出家した法王の命令文書のことです。その後、少しずつさびれ7院まで減りましたが、徳川家康によって再興され、12院になりました。しかし、明治になって、神仏分離が行われたとき、すべて廃止されてしまいました。昭和になると
宅地として開けていきました。戦後、大きな宅地造成が行われようとしたとき、貴重な遺跡を守る運動によって保存されることになりました。ここには「古都保存法発祥の地」という標識がありますが、この保存運動をきっかけとして「古都保存法」が制定されたからです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より