妙長寺
標高 6.2m
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 妙長寺は、1299年(正安元年)、日蓮の弟子日実(にちじつ)が伊豆の伊東に日蓮が流されたとき、船出したという材木座の沼浦(ぬまうら)という場所に建てたのがその始まりといいます。現在の場所に移転したのは、1681年(天和元年)の大津波で寺が流されたからだそうです。
 本堂には、公開されていませんが、日蓮・日朗(にちろう)・日実上人(にちじつしょうにん)像のほか、三宝本尊(さんぽうほんぞん)や四菩薩(しぼさつ)・七面明神(しちめんみょうじん)と、三面大黒天(さんめんだいこくてん)という大黒天のほかに毘沙門天(びしゃもんてん)・弁財天(べんざいてん)の顔も持つめずらしい像などがまつってあります。日蓮上人像には「寛文五年」(1663年)に造られたことが記されていました。

 妙長寺の起こりについては、こんな話が伝えられています。

 1261年(弘長元年) 5月の朝のことです。北条一門(ほうじょういちもん)から良く思われていなかった日蓮は、琵琶小路(びわこうじ)で幕府の役人に捕らえられ、門注所(もんちゅうしょ)という裁判所での取調べも受けず、いきなり由比ケ浜に連れて行かれ、伊豆の伊東へ流されることになりました。これを聞いてかけつけた信者の武士や愛弟子の日朗などの別れを惜しむ声をあとにして、日蓮は沼浦から船出しました。
 ところが、幕府の役人は船を伊豆につけないで、海岸にほど遠い「俎岩(まないたいわ)」という岩の上に日蓮を降ろして帰ってしまいました。俎岩は干潮のときは海面に出ていますが、潮が満ちてくると海の中に深く隠れてしまう岩なのです。
 岩の上の日蓮は大声で「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」とお題目を唱えていました。
 付近で漁をしていた船守弥三郎(ふなもりやさぶろう)という漁師がそれを聞きつけて舟をこぎ寄せ、日蓮を救いました。この弥三郎の息子が日蓮の弟子になり、後に日実となりました。
 日実は、日蓮が亡くなって18年目の1299年(正安元年)鎌倉に来て、「父がお救い申し上げたお師匠さまはどこから舟に乗られたのだろう。」と調べ、沼浦ということがわかると、そこに一番近い丘の上にお堂を建てました。これが妙長寺だといわれています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 境内には入れません。
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