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虚空蔵堂を出て、右折(登り)、道路を渡ります。
道路際に墓地があります。
道路と平行した石段を登ります。
星ノ井(ほしのい)や虚空蔵堂(こくうぞうどう)を右に見ながら上る坂道は、極楽寺坂とも呼ばれており、極楽寺の忍性(にんしょう)が切り開いたと伝えられています。
そのころの道は今の成就院(じょうじゅいん)の高さくらいだったそうですから傾斜が急で、幅も狭かった
ようです。七切通の一つで、ここから七里ケ浜を通って藤沢に通じていたので、都との往復の大事な出入口であったと思われます。
北条重時(ほうじょうしげとき)が晩年、念仏生活に入るために極楽寺を建て、この土地を領有(りょうゆう)していましたが、このことは鎌倉を守るための政
治的・軍事的な必要があったからしょう。したがって、いざというときは固く閉ざすことができる道だったのです。鎌倉幕府滅亡の際の古戦場としても有名な所です。
『太平記(たいへいき)』には「1333年(元弘3年)新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻めこむとき、切通に
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石段をどんどん登ります。
は大館宗氏(おおたちむねうじ)が大将として10万の兵を進めました。一度は北条方が敗れましたが、すぐ押し返され、大館宗氏一族以下は戦死をしてしまいました。新田義貞は5月21日夜、すぐさまかけつけて月の光にすかしてみると、切通には北条方のとりでが山の高い所まで築かれ、数万の兵士がひしめいて攻めにく
いことをさとり、南の稲村ケ崎にまわった。」ということが書かれています。そういう歴史のある道も、今では道幅が広く、ずっと掘り下げて傾斜もゆるやかになり、車が多く通行する道になりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より