信行寺 → 天寧寺へ
距離:255m 標高 出発:25.0m 到着:16.2m 最高点:25.0m 最低点:8.6m
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【伝説 幸の前の尻つめり】

 天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
 塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。
 ある夜のこと、氏子の孫右衛門が寝ていると
祭礼の「作り物」には特に力を入れ、いろいろと工夫したそうです。
 町内全体を海に見立て、本物そっくりに作ったタコや大小の魚、模型の船などを参道の上につるしたことがありました。
 参道入口の大きな海亀に迎えられ、参拝者は龍宮の乙姫や浦島太郎になった気分で、鯛やヒラメがヒラヒラと舞い踊っている下を楽しくお参りしたものです。
 模型船の下を通っていると、頭の上にしずくがニ、三滴降りかかり、びっくりして見上げると、船から人形が小水をしている仕掛けもありました。
「孫右衛門よ、孫右衛門よ」
と呼ぶ声がして白髪の老人が現れ、
「私は幸の前の塞之神である。いたんだ社の修理をたのむ。修理して祭りをしてくれれば、幸の前の氏子たちに末長く福をさずけるであろう」
と告げました。
 ふしぎに思った孫右衛門は、さっそく氏子一同と相談して、荒れていたお宮を建て替えお祭りをしたところ、幸の前はますます栄え、みんな裕福になりました。
 氏子たちは塞之神さまの御利益のおかげと、毎年旧暦四月十二日に盛大な祭礼を行いました。








 幸神社跡です。
 この海中と見立てての発想は、いかにも港町らしいとの評判でした。 また、町内の商家では商売用の品物を使って作り物を作り、店先に飾りました。
 第一次世界大戦中の作り物のテーマに「鷹づくし」というのがありました。
 ブリキ金物製造業音はブリキの切れ瑞や
バケツ、ひしゃくなどを使って、見事な大鷹を作り、木札の説明文に「日本の武力(ブリキ)に、ドイツ負け鷹(たか)」
と書きました。
 衣類の店では、酒を飲んで千鳥足の大石内蔵助の人形にはでな着物を着せ
 「赤穂浪士よ、仇討ちは、ま鷹(だか)」
 と書きました。
 また、製粉業者、かまぼこ店、古物商、豆腐屋、昆布商もそれぞれ店の商品を使って「一富士、二鷹、三茄子」とか「将軍の鷹狩り」などたくさんの作り物を飾って競いました。






テーマは毎年変わっていたようです。
 この祭礼には変わった風習がありました。夜になると「尻つめり」といって、参拝者のお尻をつめって回るという風習です。
 「今日の晩は尻つめり」といいながら参拝者たちが、たがいにはやしたててお尻をつめって回ります。女の人や子供たちはつめられても痛くないようにと、着物の下に小さな座布団や紙などを当てていました。狭い幸の前は明け方近くまでたいへんにぎわっていました。
 この幸の前の祭礼はむかしから有名で、
むかしの繁栄のあとを物語っています。


尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」
(2002年5月刊)より転載
 左の石段を登り、JRのガードを抜け、石段を登ります。
遠方から船で大勢の参拝者がやってきていました。狭い参道は身助きもできないほどでした。列がすすまないので後の者が
「早く歩け、早く歩け」
と前の者のお尻を押したのが、この「尻つめりのはじまりとのことです。
 この風習は昭和十五、六年ごろまでは続いていましたが、戦時中、建物強制疎開のため、半数近くの氏子が移転したため、祭礼ができなくなりました。そして、塞之神神社も疎開で艮神社境内に移されました。
 現在、幸の前国道ぞいに「幸神神社」と彫った石碑が建っていて、